Pot au feu 営業日報!

ORDER No.4

「初ホール」


 パリッとしたシャツ、糸くずも付いていないベスト。
 ネクタイを少し上げて、啓一は自分の姿をstaff roomと書いてある金色のプレートに映した。
 普段とは違う、その服に包まれているだけで心地よい緊張感がある感覚。
 すぅと息を吸って、啓一はドアノブに手をかけた。
「ちわーっす! 綱吉清掃会社です!」
 staff roomは休憩などに使われる部屋で、着替えは別の部屋になっている。他の部屋同様、調度品も豪華で、慣れないと休憩時にも休んだ気にならない。
「いつまでそれ言う気?」
 一体いくらするのだろうか。丁寧に作られた重厚なソファ。その前に立つ女性が、半ば呆れた顔をして言った。
「しょうがねぇだろ! 宗田のおっさん、他に使ってくれねえんだし」
「そんな態度だからお客様の前に出せないのよ!」
 朝一で啓一に説教をするこの黒髪の美人は、京野香枝と言う。入社して早一ヶ月。こうして毎日の様に二人は朝から言い合っている。
「二人とも止めてくださいよ」
 泣きそうな顔で二人を見上げている少女――見た目的に14〜5才だろうか――は、千歳優香。くいくいと二人のサロンを控えめに引っ張っては、オロオロと二人を見ている。
「あたしはあんたの教育係なんだから! あんたがしっかりしてくれなきゃこっちの評価まで落ちるのよ!」
「評価評価ってな・・・大体教育とか言いながら掃除ばっかじゃねぇか!」
 啓一は不自然に置かれている掃除用具の一つを手に取り、振り上げた。
「宗田さんにきつく言われてるの!」
 香枝はツカツカと歩いていって、ドアノブに手をかけた。
「何て?」
「あいつをホールに出すなって!」
 バンッ――と物凄い音を立てて香枝は出て行った。
「何だよ・・・あいつ」
 JPSに火を点け、一蒸かしして言った。
「香枝さんは納得いかないんですよ」
「俺だってまじめにしてるんだぜ」
 この一ヶ月、ランチの時間でさえも、店の外の掃除、三階のバーの掃除・・・等々、ポトフを掃除しまくった。・・・おかげで、ポトフ内はおろか、店の外観までも綺麗になったわけだが。
 落ち着き無く煙草を蒸かす啓一。煙草の煙がかかったのか、千歳優香はこほんと小さく咳き込んだ。
「ご、ごめん」
 慌てて灰皿に押し付ける。
「いえ、いいんです。吸っても大丈夫ですよ」
「嫌いな人の前ではなるべく吸わないようにしてるんだ」
「偉いですね」
 千歳優香は冬の日向の様にぽかぽかした笑顔を浮かべ、啓一を見た。
「で、何が納得いかないんだ?」
「へ?・・・あっ! すいません! ぼーっとしてました」
 正に”鳩が豆鉄砲を喰らった”様な顔をする。その様子が可笑しく、啓一はククッと押し殺したように笑った。
「あ、あのですね、香枝さんはちゃんと啓一さんが頑張ってる事知ってるんですよ。宗田さんにもその事を言ってるんですが・・・」
「宗田のおっさんは聞いてくれない・・・と?」
「そうです。啓一さん文句も言わずに頑張ってるじゃないですか・・・だから、余計に・・・」
「愚痴は言うけどなぁ」
 と、話しているところで時計が九時を指した。
「まあ、その話は後で。行こうか」
「はい」
 啓一は少し紳士ぶって、ドアを開け優香を先に通した。

 ロビーでは既に香枝がドアを片方拭き終えていた。
 朝日を背に受け、重厚な樹のドアを黙々と拭く香枝は・・・。
「口閉じてりゃそれなりなんだけどな」
「何がよ!」
「何でもねえ。そこは俺がやるから中入ってな」
 ロビーのドアは重く、手を放せば静かに閉まるようになっている。女の子では少々きつい仕事なのだ。
「いいわよ」
「いいよ」
「いいわよ」
「・・・こんなか弱い腕で重いドアを拭いてるお前が心配なんだ。だから代われ」
 ワザとぐすりと涙ぐむ素振りを見せる。言葉自体には冗談を含んだつもりだったが、香枝はこういう言葉に慣れていないらしい。
「へ? な・・・何言ってんのよ!」
 途端、ボンッと火が点いた様に顔が赤くなった。気が強い割りにからかい甲斐のある奴だと、啓一は心の中で笑った。
「お前はホール長だろ。中だって色々やる事あるんだから、ロビーの掃除は俺がやっとく」
 そう言うと、香枝はしぶしぶと雑巾を渡した。

 掃除が終わり、キッチンの仕込みもホールの準備も整った頃、時計は十一時を指そうとしていた。
 キッチンもホールも皆ロビーに集合し、姿勢を正す。
 全員が揃うと、ロビーの中央にある店長室から店長――峠公一とマネージャーの宗田正治が顔を出した。
「では、朝礼を始める」
 宗田がそう一声発しただけで、ポトフチームに緊張が走った。後ろにいた峠がのんびりとした顔で皆を見渡す。宗田だけでは重苦しくなってしまう場の空気を、この男はその仕草だけで見事に緩和させた。
「今朝の仕込みで足りないものは無かったかね?」
 宗田はこの程よい緊張感に満足し、話を始めた。
「ありません」
 キッチン内で少し高めのコック帽を被った三十代の男が、はっきりした口調で言った。
「ホールは? 何か問題は?」
「ありません」
 ぴしりを背筋を伸ばした香枝が言った。
「よろしい。では、レストランポトフ開店だ!」
「「本日もよろしくお願いします!」」
 全員が全員に、声を大きくしてそう言った。

「京野君」
「はい。何でしょうか」
 朝礼が終わつとすぐ、香枝は宗田に呼び出された。
「話がある」
 ズイと前に一歩歩み寄り、顔をしかめる。
 その様子にある意味恐怖を覚えた香枝は、顔を引きつらせ、さりげなく一歩下がった。

「啓一君」
「はい」
 朝礼が終わり解散すると、啓一は一人宗田に呼び出された。宗田の後に続き、そのまま店長室内へ入る。
「そろそろだと思うのだが、君はどう思うかね」
「へ?」
 宗田は時々言葉が足りない時がある。自分では含んでいる意味も相手は理解していると思っているのだろう。宗田を恐れて聞き返さない者もいるので、最近では余計にこの癖に磨きがかかっているらしい。
「ああ。ホールの事ですか?」
 うむと頷き、水槽に体を向ける。こういう時は、顔が見えないと余計に緊張するものだ。
 ごくりと唾を飲み込む。
 静かに流れるクラシックも何だか妙にスローな音楽に聞こえる。
 まあ、この話の流れからして答えはわかっているのだが・・・。
「今日から提供、パントリー内での仕分け、その他のホールでの仕事を許可する。この事はさっき京野君に言っておいたので、彼女に指導を受ける事。以上だ。何か質問は?」
「無いです。ありがとうございます」
「うむ」
 啓一は礼をして店長室を出た―――小さくガッツポーズをしながら。

「香枝さん何か嬉しそうですね」
「そ、そんなことないわよ」
 パントリー内では、今日の役割分担や管轄するエリアの確認をしていた。
 提供台の上にかかるシフト表の上に、その分担が書いてある。
「あ――機嫌のいい原因はこれですか」
 ニコニコとしながらそれを見上げる。紙の中には、提供の欄に、マジックの太字で『綱吉』と書かれていた。

「いらっしゃいませ」
 爽やかな笑みでお客様を迎える。お客様の方も、にこやかに挨拶を返してくれる。
 何だか、ずいぶんご無沙汰していた感覚に、啓一は気持ちよさを感じた。
「ぼーっとしてないの」
 すれ違い様ひじを突かれ、しぶしぶとパントリー内に戻る。
 キッチンから出てくるハンバーグの鉄板を右手に二つ、左手のトレイにランチセット―ライスorパン、スープとサラダ―を持ち、階段を上った先にある二名席へと運んだ。
「ごゆっくりどうぞ」
 礼をし、階段を下る。
 その様子は普段の啓一には無い落ち着きがあり、何だか”慣れて”いる。

「啓一さん様になってますね」
 落ち着き始めたパントリーで、優香は嬉しそうに言った。
「そうね。何かいつもと違うわ。滑稽なほどに」
 フンと鼻を鳴らし、香枝はホールに出た。
「香枝さんは時々わかりません」
 首をかしげながら優香も香枝の後に続いてホールに出た。

「・・・なんであんなに物覚えがいいのよ」
 ホールを歩きながら、香枝は心の中で愚痴った。
 啓一にはまだ二,三しか教えていない。本来自分が教えるはずだった事を、啓一は最初から知っているようにこなしている。それが気に食わないのだ。
 啓一からすれば、一ヶ月もの間掃除だけとは言え皆の働いている姿を見ていたのだ。ある時は三階のバーから。またあるときは拭いてる窓の隙間から。
 そんな事とは知らず、香枝はほんの少し――劣等感の様なものを感じていた。
「京野君」
 呼び止められ、はたとした。いつの間にか用も無く個室席の方にまで来ていたのだ。
 ポトフの個室席は完全な個室になっており、専用の給仕以外は立ち寄らない事になっている。著名人のお食事会等に使われる部屋で、昼間は滅多に使われない。
 今日も、昼は予約が入っていなかった。
「こんな所で何をしているんだね」
 宗田が本当に不機嫌そうに言った。
「す、すみません。ぼーっとしていて」
「早く戻るんだ。綱吉君がお客様と口論になっているそうだ」
「え゛っ!?」
 たんまり叱られると思い覚悟をしていたのだが、別の意味で不意を突かれた。
「私もすぐに向かう! ホール長として君は先に行っていてくれ!」
 宗田のこんなに抑揚の付いた喋り方を、香枝は聞いた事が無かった。
 何かとんでもない事になっていると知り、香枝は裾を上げ走った。
 角を曲がり、更に続く廊下を走る。
 自分がこんな所まで来ていたのだと、今になって初めて気がついた。一体私はこんな所まで何を考えながら来ていたのだろう。
 そんな思いも、ホールに着いて吹っ飛んだ。勢いを階段の手すりにぶつかる事で殺し、下を見る。
 香枝がホールに到着した正にその時、啓一は上げた右手を振り下ろした。

To be continued

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