Pot au feu 営業日報!

ORDER No.5

「初ホールにして首かよ」



 悲鳴を聞きつけ、駆けつけた時には既に手遅れだった。
 一本目のワインを空け終えたその客は、事もあろうに給仕に来た優香を抱き寄せ、その小さな唇を奪った。
 多少他からは見えにくいテーブルとは言え、周辺のテーブルからは丸見えだ。
 そんな事はお構い無しに、恐怖と悲しみで動けない優香を、男は手で口を抑えながら満足げに膝の上に置いた。
 席を同じくする二人の男は、その様子を呆れたように笑って観ている。
 事実、その男は酒が入るとこうゆう癖があるのだ。
 優香が声を上げられたのは、それから少し経ってからだった。

「てめぇ! 何してんだ!」
 駆けつけ様有無を言わさず胸倉を掴み、座っている状態のその男を無理やり中腰にさせる。
 腰に乗っていた優香は、ずるりと床へ落ちたが、ショックで動けないでいた。
 口を抑えながら上を向くと、ついさっきまで自分をおもちゃの様に扱っていた男は、情けない姿で啓一に吊るされている。
 啓一のその姿は、優香にとって正に英雄に見えたに違いない。
 すがる様にして啓一の後ろまで這って行くと、優香は張りつめていた弦が切れたように、声も出さずただ泣き崩れた。
 啓一はその頭にそっと手を添え、男を睨み付ける。
 蛇の皮膚の様に冷たい視線だった。
「な、何だよお前」
 その形相に怖気づいたのか、男の声はいつしか頼りないものになっていた。
「ポトフの従業員だ! 優香ちゃんに謝れ!」
 成る程。確かによく見ればそんな格好をしている。
 ポトフの給仕に男はいないはずだった。――事実、啓一が入るまでホールに男はいなかった。
 この男はポトフの従業員・・・その事を知った途端、男の目からは怯えが消え、奴隷を品定めするような意地の悪い目に変わった。
「大体こんな格好してんのが悪りぃんだよ。何だこの制服は」
 明らかに”やられている”感が強いのに、男は臆もせず言った。
 この男が指摘しているこの制服は、つい一週間前に変更されたばかりのものだ。中世の給仕を模したその服は、給仕服としては一般的なものだ。男性とロビーの受付以外、ホールは基本的にこの制服である。容姿も失礼が無い様、適度な化粧が義務付けられており、質としては夜の給仕と何ら見劣りは無い。多少刺激が強いと言われても否定はできないだろう。
 一方、その男は金髪に長い鎖のついたピアスを着け、高級そうなスーツを着てはいるが・・・着方にあまり品は感じられない。ノーネクタイのシャツはだらしなくボタンが開かれ、中からクロムハーツが覗いている。
「優香ちゃんはここの大事なメンバーだ。あんたみたいに品の無い奴に触られちゃ困るんだよ!」
 ”品の無い”という言葉に反応したのか、啓一の手を無理やり外し、ダンッとテーブルに手を叩きつけた。
 こんな事には慣れているのだろう。連れの二人はそ知らぬ顔でワインを飲んでいる。
「俺は香川トオル。香川グループ知らないわけじゃないだろ? 親父はここの出資会社の大元なんだ。つまりは――俺の店でもあるんだよ」
 他人を下賎の者と扱う意地の悪い笑み。啓一は沸々と沸きあがる嫌悪感を必死で抑えていた。
「だから何だ!」
 言っている事が解らないわけではなかった。権力と財力に物を言わせ、他をねじ伏せる。権力に押しつぶされ消えていく者なんて、財界でも政界でも父親に付いて嫌と言うほど見てきた。だが、啓一は父親の影響力を利用した、こうした態度が大嫌いだったのだ。
 とは言え、一度沸騰してしまったら、性格柄冷めるのにはだいぶ時間が要る。この場合も例外ではなかった。
「お前と・・・そこのチビも首だ。手続きは不要だからな。俺がしといてやる」
「ぐっ――てめぇ!」
 啓一の悔しそうな顔に満足したのか、どかりと椅子に腰を落とす。
 その態度に啓一の中の何かが音を立てて切れ、啓一は握った拳を収めることができず、右手を大きく後ろへ引いた。
「くらえぇぇっ!」
 あまりの気迫に、野次馬に来ていた者さえも目を瞑った。
 ガシッ!
 肉がぶつかる確かな手応え。
 しかし―――
「そこまでだ。これ以上は他のお客様に大いに迷惑になる」
 振り下ろした啓一の拳を、寸でのところで峠が止めていた。
「大変ご迷惑をおかけしました。折角の楽しい食事を台無しにしてしまい、申し訳ございません」
 啓一のパンチなど無かったかの様に、自然な素振りで客席に向かって深々と頭を下げる。
「お詫びと言ってはなんですが、日ごろのご愛好と感謝を込めて少しサービスをさせて頂きます。・・・では、ごゆっくりどうぞ」
 峠がにこやかな笑顔でそう言うと、まだちらちらと関心深そうに見てはいるが、皆食器を手に取り食事へ戻った。
 次いで、上でぼぅとしている香枝に目配せをする。香枝ははっとしたようにホールの皆へ指示を出し、通常の業務を始めた。
 二人ともあまりの手際に目が点になっている。
「香川様、この度の綱吉君の軽率な行動、お許しください」
「わ、わかりゃあいいんだよ。・・・でも、こいつだけは首にしておくんだな」
「ぐっ――」
 握った拳に、峠はそっと手を添え、制止した。
「こちらは”私どもの”従業員でございます。処分の如何はこちらで決めさせて頂きます」
 否定を許さないその雰囲気に、トオルは「yes」と答えるしかなかった。
 にこやかに会釈をすると、峠はまだざわめきの残る客席を後にした。
 その後に続いて、啓一は歯をギリと鳴らし、テーブルから離れた。

 ドアが音も無く開いた。
「来ると思ったよ」
「・・・本当にすみませんでした」
 啓一にはおよそ似つかわしくない顔。
 啓一の気持ちを汲んでか、峠は椅子を促した。
「お客様へは20%の割引とドリンクのサービスを行った。接客も特に丁寧にするように伝えたし、まあ、これで今後の客足に影響すると言う事は無いだろう。 しかし・・・」
「・・・・・・」
 何よりも納得いかない結論が出る事は明白だった。
「香川グループの者とやりあったのは運が悪かったな」
 キィィンと澄み切った音がした。デュポンのライターだ。
 引き出しから細い葉巻を取り出し、火を点ける。峠が息を吐くと、部屋にモンテクリストの嗅ぎ慣れた香りが漂った。
「はい・・・」
「彼自体は何の影響力も無いが・・・まあ、父親が何と言ってくるか楽しみなところだな」
「俺がここにいては不味いですよね・・・」
「そんな事は無いんじゃないかな。香川グループトップの宗一郎の息子がレストランで痴漢行為―それを目撃した従業員と喧嘩・・・」
 葉巻を灰皿へ押し付け、くくっとかみ殺したように笑う。峠はこの状況を楽しんでいるようにも見える。
「そんなこと言える訳が無いだろ。例え父親にポトフで「ある従業員から失礼を受けた。そいつを解雇するように言ってくれ」と言っても、こちらがその事実を言ってしまえば事は済む。さっきのは彼なりの強がりだったのさ」
 そうか・・・なんて安堵の息を漏らしたが、事はそう単純ではない。
 ポトフぐらいのレストランだと、こんな騒ぎでもマスコミ沙汰になりかねない。香川トオルのした事に対して注意するだけならまだしも、自分の勝手な判断で殴る寸前のところまでいったのだ。香川グループならばトオルのした事を隠蔽し、従業員の失態だけを表立たせる事もできるだろう。そういった意味でも、ポトフに迷惑をかける恐れがある。
「まあ、何にせよ今夜が勝負だ。君の処分に関しても、今夜中に連絡をするよ」
「はい・・・」
 肩を落とし部屋を出る啓一を見て、峠は仕方ないなと言うように溜め息を一つついた。
「それにしても・・・」
「峠君!」
 宗田は啓一を止めに行く途中で峠に止められた。宗田が出る事が一番平凡な形でこの騒ぎを治められただろうが、峠的には何とかそれを避けたかったのは言うまでもない。
 あの様子を半ば感心したように見ていた宗田だったが、やはり早急に対策を立てる必要があった。
「なんつーパンチ力してんだ」
 赤くなった手を見て、宗田は感心したように鼻を鳴らした。

「綱吉君!」
 パントリーに戻ると、香枝が血相を変えて迫ってきた。
「京野さん・・・に優香ちゃん」
 優香は背が小さく、その上童顔だからか、まるで記憶にある妹の様な感じだ。いなくなった妹に似ている部分もあり、何故か癒される。
 啓一としては優香ちゃんを強調したつもりは無いのだが、香枝は何故か不機嫌な顔になった。
「大丈夫?」
「はい・・・」
 先ほどの後遺症が残っているのか、優香はぼぅとした目で啓一を見上げる。大島桜の様な薄いピンク色の頬は、言うまでも無く魅力的なものだった。
「あーコホン。お取り込み中失礼ですが、何で私は”京野さん”なのよ」
「え?」
「優香ちゃんは下の名前で呼ぶのに――って、そんな事じゃなくて!」
「何が言いたいんだよ、お前・・・」
「あー、もう! どうなったかって聞いてるのよ!」
 周りには、いつの間にかホールのみんなが集まっていた。キッチンではチーフが代表して提供台から顔を出して聞き耳を立てている。
「処分の如何は今夜家に連絡が来るらしい。今日のところは最後までやっていくよ」
「そう・・・まあ、お疲れ!」
 香枝としては元気づけたつもりだったのだが、香枝に続き皆口を揃えて「お疲れ!」と言い、肩を叩いてホールに散らばって行った。
「なんか・・・俺が辞める事決まったみてぇじゃねえか・・・」
 ガックリと肩をうな垂れ、啓一もパントリーを後にした。

「香川グループかぁ。厄介なのと関わったね」
「ああ。まさかあのヤンキーが香川宗一郎の息子とは・・・」
 軽めの白ワインを飲みながら、グリッシーニに生ハムを巻いた軽食をパクつく。
 ただ点けているだけのテレビは、下らないお笑いをやっている。
「親父さんが生きていれば・・・うわっ」
 グリッシーニの中に虫が入っていたようだ。こんなもの、恐らく何百万本に一本の割合だろう。慌てる眞也を尻目に、啓一と楓は一瞬、この引きの強さを何とか宝くじに活かせないものかと考えていた。
「それを言うな。俺はそういう権力に物を言わせるような事嫌いだって知ってるだろ」
「そうかな。啓一のは意地張って無いものねだりしてるだけだと思う・・・。まあ、お父さんの話はあんまり思い出したくないだろうけど・・・」
 眞也は心の傷が再び浮き上がるのを感じて、小声になった。
「あの事件は忘れはしないけどな」
「加奈子ちゃんの事を含めてな」
 楓が怒気を含んだ声で付け足した。
 三人が下を向き話が途切れたその時、電子的な着信音が鳴り、啓一は飛びつくように受話器を取った。
「はい、綱吉です。――はい・・・あ、店長」
『君の処分だがね・・・』
「はい・・・」
『またしばらく掃除してもらう事にするよ』
「え? それだけですか・・・?」
『ああ。香川宗一郎先生から連絡が着たんだけどね、君にすまなかったと言っていた』
 くくっと押し殺したような笑い声が聞こえる。恐らくはその時の様子を思い出したのだろう。
『今は亡き綱吉先生に、よろしく伝えてほしいそうだ』
「え・・・はい。わかりました」
『じゃあ、今度は明後日だからよろしく』
「はい。ありがとうございます。・・・失礼します」
 受話器を置くと、楓と眞也がソファから身を乗り出してこちらを見ていた。
「「どうだった?」」
「ああ・・・明後日からまた来いって」
 啓一がニヤリと笑い、三人は拳と肘とを軽くぶつけ合った。
 それは、出逢ってからしばらくして、三人がいい事があった時自然にするようになったジェスチャーだった。

「そろそろかな」
 二人が寝ついた事はさっきキッチンに水を飲みに行った時確認した。
 窓を開けると、まだ肌寒い皐月の夜風が部屋の中に入ってきた。
 外に出ると、慣れた手つきで外側から鍵を掛け、庭を風の様に疾走した。三メートル以上ある塀を軽々と飛び越え、軽く襟を正し、楓はポトフへと向かった。

To be continued

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