Pot au feu 営業日報!

ORDER No.8

「Under Ground」


 ポトフの裏の仕事は政府直属の諜報機関である。
 ”起こるはずの無い事件”以来、いつの間にかこのような機関が生まれ、日本のごく限られた派閥の闇の闇にて浸透していた。
 2144年、”起こるはずの無い事件”――南米、カナダ、ロシアの主要原子炉の同時爆発テロにより、人類はかつて無い存亡の危機に見舞われた。放射能の浄化については既に2060年頃に『アルバート・シュミノフ理論』が完成していたため、CHLR(Counter High Level Radiation)システムを使った放射能浄化が功を奏し、被害は最小限に留まった。この同時爆破テロには様々な憶測が為されてはいるが、結局の所真相は闇の中。このテロをきっかけに、世界各国はかつて冷戦と呼ばれた時代を経験する事になる。裏の調査機関は発達し、日本でも諜報網の強化が図られた。第三次大戦で乱れた秩序は、混乱をはらみながら平静を取り戻した。しかし、不透明な部分が生み出す不安は後を立たない。極秘裏に・・・政府内でもほんの一握りの存在しか知る事を許されない機関がコードネーム”Pot au feu”だった。
「とまあこんなもんだ。うちの仕事、何となくわかったか?」
「はい」
 何の策略かは知らないが、優香は事の次第を聞いてはいなかった。ただ、この様な技術を会得して裏社会で情報を集めていれば、記憶にある死んだ兄の真実を知る機会があるかもしれないと思い、宗田の誘いに頷いた。義理の姉である長谷川素子の誘いで入ったバイト先にこんな組織があるとは思いもよらなかったが、微かな希望に一筋の――頼りないが――しっかりとした光を見出した思いだった。
 練馬庁舎の手前で、李は車を止めた。どこにでもある様なホンダのセダン。慣れた手つきで後部座席から道具を二、三ポケットに詰め、優香を先に降ろした。
「集めたデータはどこが見るんですか?」
 大して興味の無い事だったが、一応聞いてみる。
「さあな。末端の俺たちは何も知らない方がいい。その方が、もし捕まった時痛い目見なくて済む」
 李も大して興味が無さそうに答え、バンッと勢い良くドアを閉めた。その音が、人影の無い練馬庁舎に響く。目的の職業安定局を通り過ぎ、信号を渡る直前の自動販売機の前で止まった。先にある無人駐車場には、酔っ払った中年男性の背中を若い女性が必死にさすっている。
「ジュネーブ条約って知ってるか?」
「はい」
「今のクェート条約の前身に当たるものなんだけど――」
「捕虜を必要以上に傷付けてはいけないとかっていう・・・」
「ああ。あの・・・何だっけな・・・第三次・・・より前の第二次世界大戦の後にその条約ができたんだけど、実際はまあ、半分も守られていなかったらしい」
「学校で習いました」
 中年の男性はそのまま嘔吐し、若い女性は駆ける様に横にあるレンタカーの事務所へ入っていった。
「今でもヘマやって捕まったりする奴がいるんだけどよ、ひどいんだぜ。変な機械に繋がれて、頭ん中をいじくられる。その装置は直接脳に働きかけるもんだからな。言い逃れなんて無理だ。”検査”と呼ばれる装置で擬似記憶をふるいにかける。その後は”聞き込み”という名の拷問の繰り返し」
 ぞっとした顔をしながら李は股を擦った。
「李さんも捕まった事があるんですか?」
「ああ。恥ずかしい話だがな。スタンガンで玉一個持ってかれた」
 ハハハと乾いた笑いを響かせながら、缶コーヒーを二本買った。液晶画面に顔立ちのいい女性が浮かび上がり、「ありがとうございました」と元気のいい声を出した。一つを優香に渡し、李は蓋を開けた。国道の街灯で縮こまっている空を見上げる。今日は晴れている為、空に浮かぶ気象管理装置―ソアラが良く見える。葉っぱをたくさん集めた木の様なモノが、雲の合間に浮かんでゆっくりと回転している。
「ん? どうかしたか?」
 つられて李も空を見た。
「ああ。確かに今日はよく見えるな。不思議なもんだ。あれが無いと母なる星といっても生物が住めなくなるんだから」
「はい・・・不思議な感じですね」
 言って、優香もちびりとコーヒーを飲んだ。
「さて・・・そろそろ二時だ。行くか」
 缶をゴミ箱に投げ入れ、李が歩き出した。
「あ・・・」
「何だ?」
「・・・何でもないです」
 喉まで出掛かった言葉を飲み込み、優香も歩き出した。

 人気の無い職業安定局は夜中の図書館の様に不気味だった。つい四時間ほど前までここにいたのに、まるで違う場所に来たかのようだ。外の空気に負けず、 一階のフロアはひんやりと冷たい。
 優香たちが入ってきたのは二階の窓から。ワイヤーロープで途中まで降り、二人は反動をつけて”安全圏”に降り立った。
「健一さん達は今頃四人揃って長野の山奥のバーで飲んでいるんだ・・・」
 溜め息混じりに小さく呟く。ちなみに今のは出発の数分前に施された擬似記憶。交友関係などから情報が漏れるのを防ぐ為、組織が一時的に記憶を改竄するのだ。改竄される記憶のレベルは様々で、個々に設定できる。優香は交友関係にまで改竄を求めた。
「気をつけろ、至る所に監視カメラがあるからな」
 気をつけろといっても気をつけようが無い。来る前に渡された調査書には、死角なんてどこにも無い程びっしりと監視カメラの可視領域で埋め尽くされていた。
「俺が先に行く」
 言って、李はホールの中央を軽快なフットワークで走り出した。右に行っては下がり、下がっては前へ。テンポの速いダンスでも踊るように先へ進んでいく。
「来い」
 李がジェスチャーをする。
 見とれていた優香が気付いた時には、李は反対側の”安全圏”にまで辿り着いていた。
「は・・・はい」
 小さく頷き、タイミングを計る。心の中で1・・・2・・・3・・・。目を開いて走り出す。あと五十五cmを0.4秒で、次に三十cm右へ。イメージトレーニングの通りに踊る。李の組んだ腕が解かれるまでに、それほど時間はかからなかった。
「おお、なかなかやるな」
 スーツの下にじっとりとした汗が伝ったが、李は息も乱していなかった。
「第一関門突破だな。帰りは一発ぶっ放して派手に帰ろうぜ」
 楽しそうに点検用の床のハッチを開ける。するりと滑り込み、優香も続いた。薄い丸眼鏡の様なサーマル・グラスで通路の状況を確認すると、案の定蜘蛛の巣の様に赤外線装置が張り巡らされていた。二人は光学迷彩のスイッチを入れ、ゆっくりと進みだした。
「前回はB7のデータ管理ルームまで行ったそうだ」
「でも赤い所、たくさんありましたよ」
 見せられたホログラムには、いくつかの赤い点がまばらに点っていた。
「前回はそれが目的じゃなかったからな。へマやって見つかったみたいだし」
「捕まったんですか?」
「いや、そいつらもプロだ。ここなんかの警備兵じゃ手も足も出なかったろうよ」
 狭いダクトを体を縮ませながら張ってゆく。黒いスーツにつくホコリ。李と優香の腕には、光学迷彩Ringの赤いLEDが点っている。しばらく道なりに進むと、大きな縦長の通路に出た。何を運ぶのだろうか。工業用のエレベータの様に巨大な搬入ドックだ。時折ゴウンと大きな音とモータの駆動音がする。響く音はこの穴の深さを正確に伝えている。二人は銃身の下に付いているワイヤーを適当な場所に引っ掛け、くじらの口じみた通路を下って行った。

「香枝、もう帰るぞ」
「ふぁ〜い」
 帰る気など更々無い声が耳元を撫でる。啓一と楓に挟まれる様にして座る香枝は、そう一言言った後、カウンターにうつ伏せになってしまった。その様子に仕方が無いなと言う顔でジャケットをかける眞也。
 ポトフの三階『カンツォーネ』のマスターは、今しがた空いたテーブル席を片付け綺麗に拭き上げてくれた。
「わりぃ、おっちゃん」
 おっちゃんは四十代前半のいい年をした細身のバーテンダー。面倒見も良く、丁寧な仕事振り、人当たりの良さから訪れる者のほとんどをリピーターにしてしまう接客の名人だ。おっちゃんは啓一の熱心な掃除でぴかぴかに光る真鍮製の手すりを嬉しそうに眺めながら「お安い御用だ」と言った。
 ポトフのメンバーなので二割引。更におっちゃんの気分次第で手製のピクルスも大量に出てくる。これが美味い。啓一はたまに開店前の掃除の時間に三階に上っては、つまみ食いをして帰ってくる。その後「ピクルス臭い口で接客なんかしないでよ!」などと香枝に散々言われ、挙句口臭対策をしてはまた上っている。そのぐらい美味い。香枝を持ち上げ、毛の長いふかふかのソファに寝かせる。横に倒れるとみっともないので、再び啓一と楓で挟んだ。
「タム・デゥ、ロックで」
 テーブル越しにおっちゃんに言い、眞也がCCのハーフロックをと付け足す。楓は香枝を肩で支えながら、クリスタルみたいに光る氷を指で回している。
「起きろよ・・・もう終電五分前だぞ」
「ん〜、あと十分・・・」
「それじゃ乗り遅れだろうが! ったくもう、二杯ちょっとでこの有様か。弱いんなら考えて飲め!」
 啓一の声に揺れる肩が気持ちいいらしく、香枝は「後十分だけ・・・」と三回ほど繰り返して夢の世界に旅立った。
「しょうがねえ。家泊めてくか」
 その意見に楓と眞也が笑いながら頷き、おっちゃんがグラスを二つ持ってきて「手ぇ出すんじゃないぞ。まだ早い」と言った。
「誰が! こんな奴に手ぇ出したらこっちの玉が潰される!」
 カウンターにいた中年のカップルが笑った。それが何となく気に触り、啓一はタム・デゥを一気に空けた。横を向いて溜め息を一つ。幸せそうな顔をして、肩の上で生暖かい吐息を吐く香枝。上気した頬、少し厚めのピンク色の唇・・・酔っているせいなのか・・・思っていたよりずっと魅力的に見えてしまい、啓一はバツが悪くなって香枝から顔を背けた。何となく落ち着かない、苦手な展開。必死で香枝を見まいとする啓一を見て、眞也は楽しそうにニヤついた。

 下りながら、優香は今回のミッション内容を読み返していた。腕輪の上にホログラムが映し出されている。その下に文字がずらずらと。
「赤く示された部分の監視カメラの配置と可視領域、それに部屋の雰囲気だけ見ればいい。管制室に行ってそこを抑えれば全て済むが、まあ、このチームじゃ無理だ。コツコツやっていくさ」
「少し・・・怖いです」
 底の無い闇を見ながら優香が言う。裏の時の優香には珍しい泣き言。
「なあに、モデルルーム見学だと思えばいい」
 李はそう言ったが、優香は何となく感じた嫌な予感を拭えないまま闇の中に足を下ろした。ゴウンというエレベータの駆動音に合わせドアを開ける。ドアの先は清潔感漂う真っ白な通路。何か危ない薬品でも造っているみたいだ。映画で見るような無菌室に似ている。目の眩む様な白。毒づいている。
 この通路に監視カメラは無かった。人もいない。午前二時過ぎになると危ない組織でも眠りに着くのだろうか・・・。そんな筈は無い。二人は手早く部屋の配置をスキャンした。
 そんな作業を四回程こなし、李と優香は再び工業用エレベータの通路へと戻ってきた。思ったよりあっさりとした任務。日本を支える職業安定局と言えども、裏社会のそのまた裏を生き抜くノウハウを身につけた二人を相手にしては、ねずみが走ったほどにも感じなかったのだろうか。
「思ったより早かったですね」
「ああ」
 腑に落ちない李の声。ワイヤーロープのスイッチを押し、二人はもと来た道を上がってゆく。ここから二分程はただぶら下がっているだけの退屈な時間になる。
「あの・・・」
「ん?」
 ふわりと羽の様な笑みを浮かべる李。何を考えているのか掴めないが、何となく信用できる笑み。
「家族とかはいるんですか?」
 その問いに李の表情は一瞬険しくなった。
「チーフの言ったこと――この組織のルールを忘れたのか?」
「あ――」
 最近楓と表の方で親しくなってきた優香は、知っている人間が・・・いや、仲の良い友達が同じ組織にいることに浮かれ、ついおしゃべりになっていた。考えてみればそう。もし捕まれば交友関係から全て洗いざらいに吐かされる。友達の家、両親、住んでる場所等など。そしてその人は何も知らないまま利用され、悪ければ殺されてしまう。
 予めプロテクトをかけている情報は自分で喋らない限り漏れないが、プロテクトのかかっていない周りから責めれば得たい情報の大体の輪郭は掴める。その為の擬似記憶だ。ただし、擬似記憶を施した後に得る情報には何のプロテクトも掛けられてはいない。あっさりと(もしいればだが)李の親族は闇のハンター達の獲物となるだろう。
「すみません」
 最近になって気が高まっていた自分が暗い闇に映る。あの時、誰にも迷惑はかけないと誓ったのに――。
「重要性が解かればいいさ。俺には姉がいる。四つ年上の美人な姉だ」
 ハハハと笑い、優香を見る。
「俺はいつも姉の写真を持っている。以前改竄された記憶と見比べた事があるんだ。おかしな感覚だったよ。俺の知っている姉はその写真にはいなんだからな。誰だこれって感じになる」
 写真を一枚取り出すと、笑って言った。「姉の記憶とこれは、俺の今もっている唯一の真実だ」と。
 元の通路に戻り、狭い通風孔を行くと、間もなく自分たちが入ってきた床のタイルが見えて来た。タイルのあった場所には青白い光が差し込んでいる。おかしい。開いている。
 李も異常を察知したのか、真剣な顔で写真を丸めて飲み込んだ。
「俺が先に行く。戦闘になるかもしれない。バックアップを頼む」
 蛇の様な速さで開いているタイルの下まで行き、様子を窺う。顔を引っ込めた李の表情は固い。優香に目配せをし、李が飛び出したその瞬間、エントランスに一発の銃声が轟いた。飛び出した李も応戦し、吹き抜けの広いエントランスにバキンバキンと弾ける様な音が幾つも轟いた。音から察するに李も警備兵も共に弾頭に硬質ゴムを使用しているようだ。弾頭にゴムを使用しているとは言え、熊ぐらいなら一撃で倒せる代物だ。当たったら骨を確実に持っていかれる。
「李さ――!」
「来るな! お前じゃ敵わない・・・逃げろっ!!」
 李の必死な叫びの中にぐしゃりと鈍い音が混じった。
「―――!」
 開いたタイルに駆け寄ろうとする優香の目の前に、赤いレースのカーテンが下ろされた。ダクトを伝う血で、優香の手が赤く染まる。生ぬるい・・・それは、まだ温かみを帯びた液体だった。射撃音、手を染める赤い液体――それは一瞬の出来事で、優香が状況を把握した時には、既にエントランスには静寂が戻っていた。
「ひ――」
 気が動転し、足すらも動かない。初めての実戦。初めての戦場に降る赤い雨。それでも大声を上げなかったのは、動物が本来持っている危機感が働いたせいかも知れない。優香が震える足に活を入れたその瞬間、止んでいた銃声が再びエントランスに響いた。
「り――!」
 耐え切れず叫ぼうとしたその刹那、李がスタン・グレネードを放り、きっかり五秒後、閃光と爆音がエントランスを真昼の様に照らした。優香は瞬時に李の厚意を読み取り、泣きながら―――全速力で戦闘区域を走り抜けた。

「チッ」
 エスプレッソのカップを持った長身の女性は、回復した映像を見て小さく舌打ちをした。すっきりとした細い眉毛が、切れ長の目と共に不満の色に変わる。あんなものを使われるほどやわな訓練をしてはいない筈だ。何故気付かない?警備兵の軟弱さが前回の敗北を生んだのだ。その為に警備兵の訓練にどれだけの予算をつぎ込んだ事か・・・。前回は獲物の逃走を許した。「今度は逃がさない」ぽつりと魅力的な唇が動いた。正体不明の男の捕獲が確認されると、横にいるおかっぱ頭が白く艶のある髭を撫で、今回は出番無しかと残念そうに手袋を脱いだ。
「捕まえた男はどうしますか?」
 オペレーターが振り返る。
「302で”聞き込み”よ。銃以外の所持品は?」
「ありません!」
 その答えにおかっぱ頭の眼鏡が光る。初老の参謀―職業安定局局長補佐の近藤は局長―キャリー・ピークの横に行き、「単独での犯行の線は薄いですな」と楽しげに謳った。
「分かっているわ。すぐに現場周辺を捜査しなさい」
「はっ!」
 オレンジ色の服を着た警備兵は、敬礼をして管制室を駆け足で出て行った。ここから無線を使えば早いではないかとキャリー・ピークは思ったが、無数に並ぶ監視カメラの一角に光学迷彩独特の空間に波が立ったような映像に気づき、SS(Secret Service)を走らせた。

「了解です」
  二人の男が優香を追う。光学迷彩を巧みに使いながら、優香は出口へと急いだ。
 李の言葉が蘇る。「俺には姉がいる。四つ年上の美人な姉だ。改竄された情報かもしれないがな」私は李の姉を見てしまった。「俺はいつも姉の写真を持っている。以前改竄された記憶と見比べた事があるんだ。おかしな感覚だったよ。俺の知っている姉はその写真にはいなんだからな。誰だこれって感じになる」改竄され、本来守られる筈の彼の情報。「これは俺の今もっている唯一の真実だ」それを私は見た。隠した場所も。プロテクトは無い。捕まれば間違いなく彼の姉は見つかってしまう。何の関係も無い一般人を巻き込むわけにはいかない。
 様々な思考が頭の中を巡り、優香はすがる思いで左手に着けたRingのスイッチを押した。

 pipipi・・・と着信音が鳴る。楓は胸ポケットでブルッてる携帯を取り出すフリをしながら席を立った。
「悪い。ちょっと出る」
「ああ」
 啓一と眞也はお気に入りのドリンクを飲んでご満悦。肩にのしかかってる重い頭も、何となくまんざらでもなくなってきている。楓が隅に消えると、二人はまた馬鹿話に戻った。
「わりぃ、ちょっと忘れ物したみたいなんで取って来る」
「おう。気をつけろよ」
 二人の声に親指を突き出した拳で答える。エレベータに乗り込み、B1を押す。四階分の距離が妙に長く感じられた。二重構造になっている両開きのエレベータのトビラが静か開く。駐車場を駆けながら、楓は黒いネイキッドに向けてキーのボタンを押した。ガオン・・・と大きな駆動音。先日やっと買った最新式のKAWASAKIのバイク。心なしか気が強いように見えるフェイスカバー。シートの下に据えられた心臓は、空でも飛べそうなぐらい力強い輝きを放っている。またがると直ぐに発進。キキィとゴムを擦り減らしながら、楓は飛び出す様にポトフを出た。ぐんぐん引き伸ばされては千切れていく景色。間もなく車通りの少ない目白通りに出ると、一気に加速した。メーターなんて見てもいない。遠く左手に見える職業安定局練馬支部を睨みながら、楓は気の強いじゃじゃ馬のスロットルを思い切り開ける。右車線を走る室内が蛍光ランプで装飾されたヤン車を乳母車でも追い越すみたいに抜き去ったその時、後ろから「バシュゥ・・!」とターボの音が聞こえた。余程免許証の点数が気にならないらしい。一発免停+α覚悟の楽しいデットヒートをしようとでも言うのか。後ろの車は更にスピードを上げた。楓を抜き去ると思いきや、楓の左につけて窓を開けた。深いメタリックブルーのBMW Z6だ。スモークのかかったウィンドウがゆっくりと開き、中からパイナップルの葉の様な頭が顔を出した。パイナップルの葉は嵐の様な風に吹かれ激しくはためいている。次いで大きな目に整った高くも低くも無い鼻が暗い車内からにゅっと生えてきた。最後に白い歯を見せながら男は楓にウィンクをする。スラッジだ。
 信号が迫るのを確認すると、スラッジは「スピードを落とすな」とジェスチャーし、BMW Z6の中に顔を戻した。中で何やらナビを操作している。ウィンドウの奥に、走りたくて堪らない犬の様な顔をしたスラッジが見えた。途端に信号はオールグリーン。見渡す限りの青になった。

「はぁはぁ・・・」
 住宅街に逃げ込んだ優香は光学迷彩Ringのスイッチを切った。アパートの駐車場の影に、パリパリと荒いノイズを出しながら、まるで背景のパズルを崩す様に小柄な体が姿を現す。心臓の鼓動がデタラメに早い。これだけ吸ってもまだ足りないのか、辺りの静けさを乱すように肺は酸素を求め続ける。
  ここまで来れば、犬でもない限り見つけることはできないだろう。捕まった李の事を考えると、気が重い。しかし、一緒に捕まるわけにはいかない。李だけならば、あるいはあの状況を脱することも出来るかもしれないからだ。ここに来て何百回息を吸ったのか。気がつくと息ができなくなっていた。苦しいのに吸えない。吐きたくても吐けない。目まいと共に虚脱感が全身を襲い、優香はその場に片膝をついた。朦朧とする意識の中、目の前の植えこみでカサリと小さな音がした。不吉の鐘が頭の中で鳴り響いているはずなのに、足は――いや、体は動いてはくれなかった。次の瞬間、後ろからヘッドロックをかけられ、足が宙に浮いた。右手のRingに触ろうとしたが、もう一人がやってきて腕を軽く叩いた。それだけで、まるで最後の力も無くなったみたいに体は動く事を止めた。恐怖と苦しさと、来てくれるか分からない誰かを待つ重圧に耐え切れず、優香の意識はそこでプツリと途切れてしまった。
「よくやったゴズマ。”聞き込み”が終わったらそいつは好きにしていい」
 ゴズマと呼ばれた大型冷蔵庫みたいな男が、その言葉を聞いてニヤリと口元を歪ませた。
「局長、もう一名確保しました。光学迷彩Ringと身体強化のRingを装備しています。余程組織化した者の犯行でしょうね」
 そう言うと、しばらく通信機に耳を傾ける。満足いく回答を得られたのか、スーツ姿の男は縁無し眼鏡をくいと上げ、大き目の口で大胆に笑みを作った。スーツのポケットから煙草を一本取り出し、長い煙を吐いた。チョコレートの甘い匂い。PANTER。鼻にまとわりつくその匂いを、ゴズマは手で払った。
「行くぞ」
 ひと吸いで煙草を足で踏み潰すと、スーツの男は静かな住宅街にコツコツと硬い靴音を響かせながら歩き始めた。優香を肩に担ぎなおしたゴズマがそれに続く。
 照らし出される二つの影は、街灯との距離で長くなったり短くなったり・・・街灯は規則正しく並んでいるので、影もまるでSin波の様に規則的だ。二十メートル程前に人影を発見し、二つの影は立ち止まった。影は動かず道の真ん中で突っ立っている。後ろに気配を感じ、ゴズマがちらりと目を向けた。自分と同じぐらいの背格好の変な頭の男だ。影はゴズマの手前まで長く伸びており、ゴズマの数歩手前でパイナップルの葉が生えていた。
「なんだ、お前達は」
 スーツ姿の男が小さな声で言った。住宅街の植木に潜む虫たちの声に消されそうな、呟きの様な声だ。影はゆっくりとこちらに近づいてくる。焦る事も急ぐ事もしない、散歩みたいな歩み。そのまま何事も無く近づいてきて、止まった。少し広めの道は、得体の知れない少年の影で埋まった。いや、ソアラが頭上に来たのだ。一瞬の陰の後、再び少年の影が歩き始めた。何事にも興味の無さそうな目が小さな眼鏡から覗いている。二十歳かそこら。しかし、その目を見ただけで冷えた鉄の針金を背中に入れたようなプレッシャーを感じた。
「ゴズマ!」
 叫んだがゴズマは動かなかった。後ろを振り向くと、ゴズマとさほど変わらない体格の男がこちらに歩いてきていた。二対二。少年は自分という訳か。スーツの男はふぅと一つ溜め息を吐き、「しょうがないな」と一言愚痴を言った。

 スラッジが走り出す。走ればほんの一息で間合いになる距離だ。重斧の様な一撃を見舞う。周りの空気も一緒に引きちぎるような、重い一撃だった。ゴズマはそれをさらりと受け流し、抱えていた優香を前に出した。
「この子がいてはやりにくい」
 そう一言って、ゴズマは大切な人形を置く様に植え込みのレンガの上に寝かせた。
「なかなかフェアなヤロウじゃねぇか。国は?」
 鼻頭を指で触り、スラッジはダンスでも踊るように体を上下させた。
「国はない。3rd Warで無くなった」
「・・・そうか」
 悲しげにぽつりと言い、スラッジは再び間合いを詰めた。

「優香を返せ」
 楓は小さいが、しかしはっきりとした声で言った。スーツの男は答えの代わりに、黙って二つ折りのナイフを取り出した。触れれば切れる。そんな、気分が悪くなるほどに綺麗な砥ぎ方をされたナイフ。
「返せって言って返すと思うのか」
 当たり前すぎる言葉を聞いて気分を害したのか、男はつまらなげにそう言って楓に向かって走り出した。と同時に目の前の空間に妙な違和感が生じた。光学迷彩Ringだ。
「無駄だ!」
 ざっくりと皮のライダースジャケットが切り裂かれた。まるで空間に裂け目ができたように切れた部分が浮き上がり、白のインナーがそこから覗いた。
 男は楽しげにナイフを左右に揺らす。間もなく、裂けた部分が景色のパズルをはめるように無くなった。
「落ち着いて見れば、そんなものあっても無くても同じなんだよ」
 その言葉に観念したのか、楓はRingのスイッチを切った。組み上げた背景のパズルを一気にバラす様に、楓の姿が現れる。
「なかなか判断が鋭いな。だが、俺達は急いでいるんだ。悪いな」
 ナイフを逆手に持ち直し、間合いを詰めた。驚くほど速い一撃。ひゅんとナイフの鳴る音がし、頚動脈を庇った手の甲が僅かに切れた。楓は二、三歩後ろへスウェーバックし、バック転をした。身体強化Ringを使用した、でかいジャンプだった。鳥の様に舞い落ちる楓。男は見上げながら着地地点に走った。・・・地面に落ちてくる鳥は、待ち構える蛇の恰好の獲物の筈だった。
  ――しかし。
 男は何か硬いものに下半身をぶつけ、バランスを崩した。
「な――」
 その一瞬を見逃さず、楓は腕を取りナイフを持つ手をねじりながら男を投げ飛ばした。五メートル以上投げ飛ばされた男は、ぐしゃりと鈍い音を立てて壊れた人形の様に転がった。同時にナイフがカラリと乾いた音を響かせて路上に落ちた。腕の筋を痛めたのか、男はビクビクと体を痙攣させながら腕を抑えている。ナイフを拾い上げ、ポケットに仕舞う。後ろを振り向くと、丁度スラッジが男の顎に最高の一発をお見舞いしたところだった。
「言った割りに、ボロボロですね」
「ブルファイトが好きなもんでね」
 スポーツを終えた選手の様に爽やかな笑みを浮かべ、親指を立てた拳を突き出す。血が混じった唾を地面に吐き、優香を抱え上げた。
「お前が連れてけ」
 反射的にバイクのキーを投げる。Z6のキーとバイクのキーは宙で交差し、それぞれの手に落ちた。
「確かこの辺に置いたんだけど・・・」
 手探りで何も無い所を手で探る楓は、眼鏡を無くした近眼紳士の様だ。それを見てスラッジは、口を手で押さえながら腹を抱えて笑った。
「あった。スラッジさん、笑いすぎ。誰か起きますよ」
 ひとしきり笑った後、「スラッジで構わない」と言った。
「バイクはポトフに置いておけばいいんだよな」
「はい」
 ハンドルに着けた光学迷彩Ringのスイッチを切り、スラッジに投げた。
「んじゃ、爺さんには俺が報告しておく」
「よろしく」
 バイクにまたがるスラッジ。体重で車高が沈む。残されたストロークは僅かだ。スラッジが乗ると、700もミニバイクの様に見える。
「じゃあな」
 イグニッションに点火し、バイクを反転させると、そう言って行ってしまった。
「さて」
 優香を抱えながら、Z6のある場所に歩き始める。遊びつかれた子供の様な、あどけない寝顔。顔も声も違うが、何となく啓一の妹、加奈子に似ている様な気がした。加奈子を最後に迎えに行った夜も、こんな風にソアラのはっきりと見えるキンと冷えた夜だった。初めての実戦を経験し、楓は少し感傷的になっていたのかも知れない。誰もいない住宅街の真ん中で、歩きながら楓は――――泣いていた。
 優香の手ひらにべっとりと血のりが付いている事に気がつき、慌てて車に運び入れ外傷を探す。スーツを脱がせたが、どこにも傷は見当たらなかった。
「誰の血だ・・・」
 考えても思い浮かばず、楓はエンジンをかけた。遠く後ろの方で、さっきの大男が体を起こすのが見えた。早く退散するのが吉。楓はZ6のギアをローに入れ、練馬ICを目指した。

「ん・・・」
 悪い夢を見ているようだった。
 海の中で漂っている。
 水の中は自分たちの世界じゃないから、息をする事もできない。助けを呼んでも来てくれるのかさえ分からない――
「千歳!」
 その声で優香の意識はぐいと現実に引き戻された。
「ここは・・・」
 トトントトンと規則的な心地よい揺れを背中に感じる。横を見ると、楓が焦ったような目を小さな眼鏡の奥に覗かせていた。片手でハンドルを握りながら、優香の顔に触れる。
「大丈夫?」
「はい」
 弱った子猫の様な声を上げ、優香は楓の手に触れた。冷え切って硬くなった手。ひんやりとした感触が心地よい。
「ありがとうございます」
 目をつぶり、謳うように言った。
「追っ手が来たみたいだ」
 バックミラーに黒塗りのセダンが二台、徐々に間隔を詰めてきている。
「・・・。千歳、発信機か何か付けられた覚えは無いか」
 慌てて体を触る優香。結った髪の毛をほどくと、ぽとりと金属片が落ちた。
「それだ」
 窓を開け、投げ捨てる。サイドミラーに写る手を見て、はっとした。ダッシュボードの上に、赤黒く染まったタオルが置いてある。血は丁寧に拭き取られていた。
「あ・・・あの、――さんは・・・」
 咳を切るように言葉を吐く。まただ。また息ができない。
「ほんとに大丈夫か」
 とても大丈夫そうには見えない。呼吸を忘れた魚の様にパクパクと口を動かしては喉をかきむしる。開きむしる喉は皮膚が破け、血が滲んできていた。
「・・・過呼吸か」
 楓はダッシュボードから袋を見つけ、優香に手渡した。
「それに口を当てて息をするんだ。落ち着いて・・・。掴まってろ」
 そう言うと、ぐんとスピードを上げた。この程度なら追いつけるとでも思ったのか、後ろの二台はこちらを上回るスピードで追い上げて来た。勝負をかけるつもりなのだろう。二台のセダンはZ6を挟むように左右から迫ってきている。
「バカだな。Z6がこんなに遅いわけないだろ」
 言って、ブレーキを踏んだ。二台のセダンは減速する間もなくそのまま前方へ過ぎてゆく。スモーク越しに慌てている運転手が見えた。セダンが楓の意図に気付き、減速した時にはもう遅かった。Z6は手前のICから一般道路へと車線を変え、降りていくところだった。ICを抜け、一般道路へ。外苑通りを経由し、表参道に向かった。遠回りだが、大通りで夜中なのに通りは多い。Z6等の高級車も少なくなく、目立たない道を選んだ。
「落ち着いた?」
 袋に口を当てながらコクコクと頷く。車酔いした子供みたいだ。
「はい。だいぶ落ち着いてきました」
「今日は家に泊まりな」
「えっ・・・でも・・・」
 袋に口を当てながら、カァと顔が赤くなる。
「心配すんな。京野さんも泊まるはずだから大丈夫だよ」
「そうですか」
 と何故か残念そうな、嬉しそうな微妙な表情をした。表参道の煌びやかな通りを抜け、青山通りの交差点を直進。住宅街に入ると、間もなく以前優香と帰り、別れた坂の公園が見えてきた。坂を上ると、右手に鋳鉄で造られた立派な門が見えてきた。横にあるガレージに向けて携帯のボタンを押す・・・と、大型車が三台は入りそうなシャッターが開き、楓はその中に器用にZ6を入れた。
「ふぅ」
 シートベルトを外し、楓が胸を撫で下ろした。
「今日は・・・すみませんでした」
 しょんぼりと片をうな垂れる優香。小動物みたい。
「気にすんな。李も危ない所で救出されたみたいだし、現場には証拠を残してない」
 その一言で優香の表情はパッと明るくなった。胸に手を当て、神に感謝でも捧げる様に静かに目を瞑る。
 pipipi・・・と携帯の呼び出し音が鳴った。楓はリボルバー式の携帯を片手で回し、耳に当てた。
「はい。ああ、宗田さん・・・はい。今横にいます。・・・今夜は京野さん達もいるんで、ここに泊めるつもりです。・・・はい、伝えておきます。・・・擬似記憶ですか?・・・ああ、俺が来た時には何故か解けてたみたいです」
 横にいる優香がはてな?と首を傾げる。擬似記憶が解けた事自体いつだったのか思い出せない。
「わかりました。はい・・・では」
「宗田さん、怒ってました?」
「いや。今回は敵に情報が一切渡らなかったらしいしね。緊急時の脱出訓練と思って今後に役立てろってさ」
 携帯をポケットに仕舞い、優香を先に降ろす。右手に着けている光学迷彩Ringを外し、銀色のアタッシュケースに入れた。
「あ・・・私も」
 慌てて優香が駆け寄り、ウレタンの包むケースに入れた。
「それにしても・・・大きな家ですね」
「啓一のパパはあの有名な綱吉武(タケル)だからな。各事業も成功していたみたいだし」
 この頃の日本では、政治家として得られるものはコネ等の二次的な繋がりだけで、政治家が自分の財を自分で築くことは当たり前の事だった。
「三人で暮らしてるって・・・もしかして」
 優香が涙を堪えるように下を向いた。小さな肩が、僅かに震えている。
「ああ。住民を個人資産の状況から個人的な能力、果ては現在何処にいるのかまで・・・それこそ徹底管理する職業安定局の一大事業『衛生管理住基ネット』の開発に反対していた為―――かどうかは推測の域を出ないけど・・・啓一が高二の時妹の加奈子が誘拐され、その一年後・・・両親が外出先のレストランで殺されたんだ・・・」
 一時ワイドショー等を賑わせていた事件だ。あの時は他人事の様にその報道を見ていた。だが・・・。コンクリートの床に、ぽたぽたと涙が落ちる。今までそんな素振りさえ見せなかっただけに、啓一の笑顔が・・・とても悲しいものに感じられた。
「両親を殺されて以来、啓一の奴しばらく口も利けない状態だった。無理も無いよな。言葉を無くしたみたいにただ勉強ばっかやって・・・。俺らの大学マンモス大学だから・・・歩む道違えどって同じ大学に入ったんだ。三人で過ごすうち、段々と今の啓一に戻ったんだけどね」
 泣きじゃくる優香を抱き寄せ、背中に手を回した。
「俺がポトフのチームに入ったのも、真実を知る為なんだ。あいつの妹の加奈子とは高校の頃付き合っててね。・・・俺は、加奈子を見つけ出す」
 優香は楓の胸に思い切り顔をうずめた。CKの優しい匂いが、楓の顔に重なる。
「すみません・・・なんか、悪い事聞いちゃった気がします・・・」
 ひっくひっくと嗚咽を漏らしながら、楓の胸の中で言った。
「俺もなんでこんな事まで言ったのか解かんないけどさ・・・あいつらには黙っておいてくれ」
「は――い・・・えっ!?」
 胸を掴む腕が急に力を失った。きょとんと横を見る優香につられて、楓も横を見る。
「わりぃ、楓。邪魔したみたいだな」
 ガレージの前には、ぽりぽりと明後日の方を見ながら頬を掻く啓一がいた。すぐ後ろで香枝と眞也が気まずそうに立っている。
「あ・・・私たち、さ、先に入ってるから」
 ワザとなのか、三人は油の切れたブリキの木こりの様に門のほうへ歩いていく。
「ど・・・どうしよう」
 青白い月明かりの射すガレージで、抱き合う手を解かないまま楓と優香はそう一言漏らした。

To be continued

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