Pot au feu 営業日報!

ORDER No.10

「大気を統べる者」


「んじゃ、行ってくる」
「「おう」」
 煙草や財布などを適当にポケットに詰め、啓一はリビングを立った。十時からバイトがあるのだ。
 車庫からマーティンのボードを出し、煙草に火を点けて地面を蹴った。スケボーの進化した形のそれは、地上から約十センチほど浮き上がって進む。ぼーっと立っているだじゃ進まないことや、キックを蹴ってジャンプするオーリーなどの技を楽しむなど、ウィ―ルとトラックが無いだけで基本的な操作は変わらない。ちなみに『マーティン』はボードのブランドの名だ。陽気の中を煙草を蒸かしながらゆったりと流す。動いていなければ死んでしまいそうな啓一だが、実はこうのんびりしたのも好きだったりする。
 時間があるので、啓一は例の公園を通り過ぎてそのまま坂を下ることにした。眼下に見下ろされる表参道、青山。啓一達の生まれる前からここらは隆起し、山となっている。三十年ぐらい前に起きた地殻変動で、二十一世紀初頭に比べ日本の地形は随分変わってしまっていた。啓一はボードをスライドさせ、坂の中腹で止まった。空と陸の間には山があり、その下には灰色の絨毯の様に電気回路みたいな街が敷き詰められている。自然と文明の最もたる比較。
「うーーーん」
 背伸びをしてあくびを一つ。暑くも無く寒くも無い気温に、バイトなんかどうでも良くなるくらい澄んだ空。
「世は事もなし・・・か」
 自然とそんな言葉が出た。
 pipipi・・・
 ベルトに挟んでいたケータイが鳴った。サイドにあるボタンを押して開くと、着信は案の定香枝からだった。
「香枝。 何」
 紫煙をゆらゆらと吐きながら、啓一はこの陽気を象徴するような声で言った。
『啓一。 もう家出たの』
 急いで階段を駆け上がってきたような声。 キンと一本のしっかりした針金の様な声は、今日も元気だった。
「ああ。今坂だ」
 啓一はボードをつま先でいじりながら答えた。
『宗田さんが話があるから早めに―――』
 香枝が何か言おうとしたその時、後ろから猛烈な風が吹き抜け、啓一の手からケータイを叩き落とした。
「な――!」
 次の瞬間、バキンとケータイの潰れる派手な音がした。視線の先には、真っ赤なクーペが止まっている。
「あ――! ごめん!」
 運転席で振り向いたのは、栗毛の女だった。女優の様に整った顔。と、人類の理想を描いたようなスタイルに、啓一は一瞬どきりとしてしまった。
「マジかよ・・・」
 落胆した顔でクーペに走りより、片腕で助手席のドアを掴んだ。前輪の少し後ろには、二年間愛用したケータイが無残な姿で転がっている。栗毛の女は啓一の目を不思議そうに覗き込み、はてなと首を傾げた。
「な、何だよ」
 水晶の様に澄んだ目に見つめられ、啓一は思わず目を反らした。 その視線の端に、坂の上から猛スピードで駆け下りてくる黒塗りのセダンが映った。急に焦ったような、困惑した目をする。
「ごめん、急いでるの」
 言うなり女はガオンとギアをローに入れ、タイヤを鳴らした。
「何だその言い草は・・・逃がすかよ」
 ボードを持ったまま、啓一は左腕を軸に助手席へ飛び乗った。華麗な身のこなしに、女は「ヒュゥ」とご機嫌な口笛を吹く。そのまま、女はまるで啓一と待ち合わせでもしていたかの様な自然さで車を出した。
「な――」
 スポーツクーペ特有の大馬力をフルに使い、2nd,3rdとギアを一気に上げる。一瞬の内に法定速度を軽くオーバーするスピードに達すると、そのままグイグイと黒のセダンを引き離しにかかった。
「警察になんか届けやしないから、とりあえず止めろって」
 まさか走り出すとは思わなかったので、啓一はボードをぶんぶんと振り回しながら叫んだ。
「危ないっ。 頭下げて」
 次いで、ギアに伸びる啓一の腕を払い、女は無理矢理啓一の頭を下へ押し込んだ。突然押さえつけられた啓一は、持っていたボードに思いきり頭をぶつけた。
「ってぇ。 何すん――」
 ババババババッ!!
 そう言った刹那、爆発音と共にフロントガラスが粉砕した。降りかかるガラス片。女は動揺した素振りも見せずに、半端に残ったガラスをハンドガンのグリップで叩き割った。
「危ないから頭下げてて」
 状況は全く掴めないが、フロントガラス全損の車で表参道を疾走する謎の女。道行く人たちは、まるで映画の撮影でも見ているかの様に興奮している。明治通りに抜けるまで、啓一はその横顔に半ば呆れたように見とれていた。

 バイトの時間が過ぎたのは、高速道路の中での事だった。相変わらず後ろからは黒塗りのセダンが物騒な獲物を引っさげて追っかけてきている。
 女の名前は渚。苗字は名乗らなかった。
「渚さんだっけ。 いい加減降ろしてくれないかな・・・」
「無理よ。大体高速道路の真ん中で降りてどうするのよ」
「俺は十時からバイトなんだよ」
「あら、十時ならつい二分前に過ぎだケド」
 コンソールの時計はまだ十時十五分前だ。疑惑の目を向ける啓一に、渚は腕時計を見て「遅れてるのよ、この時計は」と言った。
「止めろって。 ウチのマネージャーは厳しいんだよ。せめて連絡ぐらいさせてくれ!」
「だめね。そんな時間はないわ」
 感情のないその言い方に、啓一はカッとなってハンドルに手を伸ばした。その反動でハンドルが大きく左に切られ、体勢を立て直そうと車は道路内を右往左往した。
「やめなさい! 危ないでしょ。お願いだから大人しくしてて!」
「トイレ、トイレ」
  バイト前に着けば余裕で間に合う計算だったのだ。ここへ来て流石に限界にきている。啓一青ざめた表情が深刻なその状況を物語る。しかし――
「そんなミエミエのウソつかないの」
 渚はまるで取り合わない。
「ホントだって」
 切迫の表情で渚に詰め寄ったその時、またも無数の銃声が轟いた。蛇行したおかげで、かなり差が縮まったのだ。弾はテールランプを吹き飛ばし、その一つが啓一のシートの背もたれに命中した。
「い、今、後ろでバスンて音がした・・・」
 顔を引きつらせ、啓一は背中を触った。――どこにも怪我はない。一応確認はしたが、漏らしてもいないようだ。
「お願いだから頭下げてて」
 呆然とする啓一の頭を押さえた瞬間、渚の細い腕から血が吹き出した。
「きゃぁ」
「渚さんっ」
 撃たれたショックで体を痙攣させる渚。車は速度を落としながらフラフラと進んでいる。
「・・・ああ! ちきしょうっ!」
 啓一は頬を叩いて気合を入れ、渚の右足を押してアクセルを吹かし、左手でハンドルを支えた。
「ごめん・・・啓一君」
 腕の傷はかすり傷だったようだ。だが、その腕では今までの様な激しい運転はできないだろう。
「しゃべんな! 助手席に来れるか? 運転は――俺がやる! その代わり、ここ切り抜けたら帰らせてもらうからな!」  
 アクセルを目一杯吹かした後、渚は倒れこむように助手席に移動した。啓一は後ろからの銃弾を気にも留めず、運転席へと滑り込んだ。
「おい、この先は行き止まりだぞ?」
 肉を少しえぐってはいるが、手持ちの救急セットでどうにかなる範囲らしい。痛み止めと血止めを打ち、真っ白な包帯で巻くと、渚は大きく深呼吸し「大丈夫。道はあるわ」と言った。
 ここらを走る一般の車は休日ともあって台場前のインターで降りていった。啓一達はその先の、規制されている道路をコーンを蹴散らして入った。黒のセダンもそれに続く。
「次で降りて!」
 しばらく進んだ後、渚は言った。まだ一般に公開されていない道路なので、アスファルトはサーキットの様に綺麗だ。
「了解。――ちょっと荒い事するけど、我慢してくれよな」
 インターの直前で、啓一はホイールロックの限界までブレーキを踏んだ。すかさず左にハンドルを切り、強引にインターへ滑り込む。不意を突かれたセダンはそのままインターを通り過ぎた。無理な急ブレーキでコントロールを失うセダン。バックミラーにはセダンの姿はもう見えない。
「バカだな」
 啓一の捨てゼリフ。いつの時代でもお決まりの展開はあるもんだ。

「あれ? この先にあるのって・・・?」
 都市高を降りてしばらくして啓一は気がついた。無理も無い。新都東京国際空港建設のために新たに埋め立てられたこちら側は、空港が未完成のためまだ開通していない。建設中の空港以外、今はただ何も無い空き地が延々と広がっているだけだ。
「そう、新都東京国際空港建設予定地。そしてあそこに見えるのが――」
 視線の先には、遠く、天に向かって延びるスペースライダーの発射装置が見える。啓一達は白くぼやける道路を真っ直ぐに進んだ。啓一はどうでもいいとばかりに横を見ながらふんと鼻を鳴らした。
「はぁ・・・。もう怒る気も失せたよ。俺はこの辺で帰らせてもらうぜ」
 啓一は車を止めた。だだっ広い埋立地にはこの車以外影も見当たらない。
「待って!」
 車を降りる啓一の背中に、か細い手が伸びた。
「何で巻き込まれたかも解からずに、危険な目にあうのはもう嫌なんだ。俺のこの命は、簡単には捨てられない。まだ、やる事が残ってるんでね」
 遠く、泣きそうなぐらい遠い目で渚を見つめる啓一。
「・・・解かった。いきさつを話すわ。これはあなたやあなたの友達――いえ、日本に住む人全員に関係あることよ。だからお願い、私と一緒に来て!」
 啓一から必死に目を反らし、渚は啓一に銃口を向けた。撃たれた腕では力が出ないのだろう。シャツは掴んでいると言うよりつまんでいる感じだ。父親譲りのお人良しが顔を出したのか。しばらくの沈黙の後、啓一は観念したとばかりに溜め息をつき、運転席のドアを閉めた。
「ありがとう・・・」
 啓一を抱きしめ、軽く首筋にキスをした。豊かな胸と、甘い香りが煩悩を刺激する。
「あ、あのなぁ! そうゆうことされたくて連れてくんじゃないからな!!」
 啓一は三回ほどエンストを起こした後、全速力で新都東京国際空港へ車を走らせた。―――実は、お腹の方も限界だった。

 建設中である新都東京国際空港へはすんなりと入ることができた。”3rd war”と”起こるはずの無い事件”以来、各国の玄関口である空港には、常に厳戒な警備体制が敷かれているのが普通だった。――筈なのだが、啓一達の向かう先々にあるフェンスは、まるで待っていたかのように開け放たれていた。警備員も見当たらない。地面からの照り返しで、春を抜けたばかりだと言うのに真夏の様に熱い。広い滑走路内をアクセル全開で疾走するのは、便意が限界でなければきっとものすごく気持ちがいいに違いない。
「あれ! あの機体の側に止めて!」
「もう限界・・・」
 啓一がお腹を抱えて倒れこんだと同時に、車は荒々しく止まった。
「ありがとう。けど、本番はこれからよ」
 視線を空に移す。空には気象管理装置ソアラが雲の合間を散歩でもするように流れている。
「・・・ふぅ。オーケイ。分かったよ。ウンコ我慢させられてまで命狙われちゃ堪らねぇよ」
 ニヤリとする啓一に、渚は心底嬉しそうに頷いた。
「そうだね。あはは」
 あはは・・・と、笑っている余裕はない。啓一はデッキを駆け上ると、すぐさま機内のトイレへと駆け込んだ。遅れて搭乗する渚。
「呆れた・・・ホントだったのね」
 時刻は予定通り。見上げる空は雲一つない青空。渚は運転席に座ると、ゆっくりと機体を滑走路へ進ませた。

「はい・・・そうですか。解かりました。宗田さんには私から伝えておきます」
 はぁ、と呆れたような心配してるんだか微妙な溜め息をつき、香枝はケータイをポケットにしまった。そのままどかりとソファに沈み込む。
「どうだ?」
 控え室のドアが開く音がし、次いで後ろからしわがれた、だが十分な深みのある声が聞こえた。宗田だ。
「家はもう九時半前に出たそうです。私が電話した時も、ここに来てる途中だったみたいですし」
「ふむ。寄り道しても着く時間だな」
 整えられた顎鬚を一撫でし、宗田正治は眉を寄せた。
「あぁ!!」
 別のソファに座っていたホールの長瀬亜矢が突然声を張り上げた。長瀬亜矢は香枝と同じ大学のマンドリン部の後輩だ。男の子にちょっかいを出すのを趣味としている一風変わった子。別に男関係に特別執着してる気もなく、亜矢からすればただ自然にスキンシップをしているに過ぎないのだが、心配性な香枝は”この子は放っておいたら危ない”と思い、丁度バイトを決めかねていた事もあり、ここに呼んだのだ。ちなみに福岡県出身で、東京へ来て二年になるが、博多弁は抜けていない。そこがまた男子の心をくすぐるらしい。飛び上がった勢いで細い赤縁の眼鏡がズレている。
「どうしたのよ!」
「これこれ!」
 香枝に飛びつくように走り寄り、ケータイの画面を見せる。そこには、表参道でのカーチェイスの模様が映し出されていた。一般人がケータイで撮った動画をテレビ局が流しているのだそうだ。画面の中でレポーターが銃声に怯えて叫んでいる。
「ちょ、これって啓一じゃないの!?」
 高画質動画を切り取り、車の中の二人が拡大された。
「啓ちゃん、バイトサボってデートしようとね」
 啓一の横にいる女を指して、亜矢が楽しげに言った。
「ぁん!?」
 香枝の眉にしわが寄る。
「カエちゃんどうしたん?」
「な、何でもないわよ!」
 クククと笑いを噛み殺す亜矢。ケータイの画面には現在の車の進路が映されている。
『情報によりますと、二名の内、助手席の一名は一般人のようです! 現在都市高速を台場方面に向かっている模様です! 台場方面へお越しの方は――』
 リポーターの興奮した声、野次馬の声が煩いぐらいに響く。
「む――!」
 女の顔を見て、宗田が唸った。
「京野君」
 顎鬚を撫でて、宗田はくるりと踵を返した。  
「朝礼には間に合わせる。啓一君の事は心配しなくていい。準備の方、よろしく頼んだぞ」
 そう言って足早に控え室を出た。
「なんか宗田さん啓ちゃんが来てからよく走るようになったなぁ」
 そう言って亜矢はクスクスと笑った。
「みんなにこの事件教えてやらんと!」
 香枝はケータイを頭につけてきゅっと目を瞑った。
「ほら、みんなが待っとるよ。大丈夫、啓ちゃん体丈夫そうやし!」
 亜矢は香枝を抱きしめ、鼻の辺りで柔らかく薫る頭を撫でた。
「そうね・・・。準備に戻りましょ」
 香枝はケータイをポケットに入れ、亜矢と共に控え室を出た。

 支配人室の中には、ふわりと上品な葉巻の匂いが漂っている。奥のデスクで峠が数枚の書類を前に唸っていた。
「ああ、宗田。来たか」
「ぼっちゃ―いや、峠君」
 峠に睨みを効かされて、宗田は慌てて訂正した。デスク上のビジョンには、先ほどのニュースが流れている。こちらの言いたい事は解かっているようだ。
「全く、あいつは何て厄介ごとに首を突っ込むのが巧いんだ・・・」
 はぁと溜め息をつきながらも、何故か楽しげな峠。
「どうするんだね」
「そりゃあ・・・行くしかないだろ。上の方もこの件に関しては早急な解決を望んでいる。と言うか、最優先事項を記した書類までご丁寧に送ってよこしたよ」
 どこにでもあるようなA4の書類を宗田に手渡す。
「なっ――」
 そこに書かれた文章を見て、思わず書類を持つ手に力がこもった。
「ふぅ・・・。宗田らしくないな。落ち着け。メンバーは上手く組んでくれ。こっちはこっちで手を回すから。なるべくいい形で・・・な」
 静かに頷き、宗田は奥のドアを開ける。そこは半畳ほどの何も無い部屋になっていた。宗田は対面にあるドアを開き―奥にはもう一つの部屋が見える―再びドアを閉めた。
『ムネタショウジ―承認。何階ヘイカレマスカ?』
 無機質な声が聞こえ、宗田は「B3へ」と答えた。
 ブリーフィングルームには既に黒服達が集まっていた。皆ニュースを見て集まったのだろう。ここにいるのは3rd Warで活躍し、手に入れた平和に満足できない者達ばかりだ。非日常を己の唯一の居場所と考えている。黒服達の中には、楓と優香の姿もあった。二人は――いや、優香の方は楓から少し離れて座っている。
「諸君らは既に何らかの形で知っているとは思うが、”奴ら”が動き出した。上も早急な解決を望んでいる。メンバーを発表する」
 キンと凍りつくような緊張が走る。任務の性質に向いてる・向いていないに関わらず、メンバーに入れるか否かは実力が在るか無いかを暗に示している事に他ならないからだ。
「李堅勇!」
「はい!」
 姿勢を正し、李が立ち上がった。楓も一番、二番手で呼ばれるとは思っていない。拳を握り締め、待った。
「アレックス・マクドナルド!」
「Yes!」
 スラッジが立ち上がった。相変わらずスーツの上からでも筋肉の形が分かる。これじゃタキシードを着ても軍服に見えそうだ。
「シャドキンス・ムラタ」
「はい!」
 スラリとした長身の男が立ち上がった。背中まである金髪は、しっとりと濡れている様にまとまりがいい。顔は整いすぎていて少し怖いぐらいだ。立ち上がると、シャドキンスは長い前髪をかき上げた。楓は祈るように待った。が、宗田は書類をファイルに仕舞ってしまった。
「以上三名だ。何か質問は?」
 メンバーに漏れた者達が舌打ちをした。
「宗田さん! 俺もメンバーに入れてください!」
 楓は思わず立ち上がっていた。数人が苛立たしげな目で楓を見た。宗田はトンと書類をまとめると、相変わらずの厳しい表情のままで部屋を出た。追って楓も出る。
「宗田さん!」
 暗い通路に響く声。
「お願いです。・・・行かせてください」
「駄目だ」
 宗田は背を向けたまま、ただそう言って歩き始めた。
「宗田さん! 俺の・・・俺の親友なんです! 何故行かせてくれないんですか?」
「斉藤君、君は今の仕事が分かっていない様だな」
「分かってます・・・でも・・・」
「いや、分かっていない」
「分かっています!」

「なら・・・君はその手で綱吉君を殺せると言うのだな?」

 その言葉が、 嫌に大きく通路に響いた気がした。宗田を追わない、それがどうゆう事か解かっているはずなのに・・・楓は指一本動かす事ができなかった。

 五分後、裏ポトフのロッカールームに楓はいた。目の前ではスラッジがブーツの紐をきつめに締めている。
「・・・そうか」
 いきさつを話すと、スラッジはただそれだけ言った。
「これから詳しい作戦内容が発表される。その発表によってはまだ希望があるかも知れない」
 李が楓の肩を叩いて言った。
「まあ、殺せと言われたら殺すがな」
 シャドキンスがオニキス入りのいかつい指輪を数個はめながら言った。
「シャドキンス!」
「俺は別に友達と遊びに来てるわけじゃない。仕事だ。悪く思う方がどうかしてる」
 シャドキンスはそう言い残し、ロッカールームを出た。
「今回の作戦はスパイじゃないから、敵の捕虜になる事なんてない。生か―死かだ。記憶操作の方もされないと思うから、連絡はするさ」
 李が最後の準備――姉の写真を胸に入れ――ロッカーを閉めた。
「ありがとう・・・」
「まあ、家でテレビ見てな。映らねぇとは思うが」
 スラッジが笑いながらロッカールームを出て行く。その背中に頼もしいものを感じ、楓は気持ちが緩んだのだろう。涙が頬を伝った。
「啓一・・・くそっ!」
 ロッカーをへこませる事に意味など無かった。が、楓にはやり場の無い怒りを静めさせるのにそうするほか無かった。
 やがてそれにも空しさを感じた頃、一枚のタオルが楓の手を包んだ。
「斉藤さん」
 心配そうな、どこか接するのに所在無い顔をしながら、千歳優香は腰を下ろした。
「すまない」
「自分の心は偽れない。表面上の感情なんて空しいだけです。間違ってるなんて、後から考えればいいんですよ」
 皮が破け、血が流れる拳をそっと拭き、千歳優香は精一杯の笑顔を向けた。
 それで、頭に上っていた血がすぅと引いた気がした。
 表面上の感情・・・。  
「・・・そうだな。優香ちゃんがあの時怒った訳も、今やっと解かったよ。・・・すまなかった」
「え?」
「いや、何でもない」
 手を洗い、優香の差し出してくれたタオルで拭く。ロッカーから包帯を取り出し、それを手に巻くと楓は皮のグローブを手に、ロッカールームのノブに手をかけた。
「楓さん!」
 優香の小さな手が楓の袖を掴んだ。楓は振り返り――精一杯の笑顔で「ありがとう。帰ってきたら表面上じゃなく、本当に――」と最後まで言い切らないうちに部屋を出た。
 真っ白なロッカールームで、優香は初めて言葉の真意を理解した。

 ポトフの地下駐車場に置かれた大型バイクにまたがり、エンジンを始動した。目指すは新都東京国際空港。メットの隅に最短ルートの検索結果が映し出される。都市高の入り口に向かい、楓は疾走した。

To be continued

 

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