私を男と呼んでくれ
第二話『鈍痛』
「死にたい」
ポツリと呟き、慌てて「違う」と否定した。
別に世の中や自分の状況を悲観しているわけでもなく、また厭な事があったわけでもない。
何となく―――そう、何となくこの何でもなさ過ぎる生活から”変わりたい”という願望が、その言葉を吐かせているのだ。
イメージは転生を望むというのに近いが、ある意味ヒーローの「変身」という言葉に似ている。その一言で自分を取り巻く世界が変わるからだ。
はぁと溜め息をついたところで、携帯の着信音が鳴った。
その異常に気付いたのは、さやかと最後に逢ってから丁度一週間が経ったある日だった。
下腹部に痛みを感じ、目覚めた。
時計を見ると、まだ午前四時。白んできている空をカーテンの隙間越しに見て、トイレへ立った。
用を足しても一向に引かない痛みは、妙な不安を掻き立て、一層夜を長く感じさせる。
明日はバイトの後、給料が入ったので買い物でもして過ごそうと思っていた。
MKやARROWS、HAMNETなど、いつものコースを回って・・・スタバでカフェラテを飲みながら煙草を一服。
密かに楽しみにしていた事も、今はもう考える余裕もない。
腕を折った時以来の脂汗が頬を伝う。
クーラーをガンガンにかけ、それでも止まらない脂汗は、不安を目に見える形にしたようだ。
「はぁはぁ・・・」
下腹部の痛みはじわじわと、だが確実に激しさを増している。
一分一秒と待たずに次の段階へ進んでいる感覚。
叫んでもどうにもならない
オ前ノ不安ハ、現実ダ。
頭に響く声は、どれも不安や恐怖が入り混じっている。
寝れないなんて事は今まで一度も無かったけど、以前医者にもらった睡眠薬を思い出し、飲んだ。
ベッドに戻った途端、痛みも不安も恐怖もまるで空気を失った炎の様に静かに消え、そのまま眠りについた。
次の日、目覚めると時間はもう午前十時。バイトは十二時からだから、このタオルケットもそろそろ引き剥がさなければならない。
薄いカーテン越しに今日も暑いのだろうと考えを巡らす。
タオルケットを上げ、ベッドから降りた瞬間――股から太ももにかけて激痛が走った。
そのまま耐え切れずに床に倒れこみ、昨日飲んだ鎮痛剤を手探りで探す。――が、見つからない。
後で探したら、全く見当違いの所にあったのだが、その時の私はパニックに陥っていて考えを巡らす事ができなかった。
携帯を握り締め、打ち慣れた番号を呼び出す。
プルルル・・・と呼び出し音は鳴り続ける。嘔吐感を伴った痛みに耐えながら、後一回、後一回と待ち続ける。
しかし、六度目のコールを待たずに、意識がトンだ。
気がつくと十二時三十分前。駅までの時間を考えると、もう出なければならない。
冷蔵庫を開け、見つけた鎮痛剤と一緒に冷たい水を飲み干すと、痛みは幾分よくなった。
携帯やら財布やらを適当にバックに詰め、俺は少し早足で駅へと向かった。
「どうしたのっ? 顔色悪いよ」
バイトに着いて「おはよう」 の挨拶より先にそう聞かれた。
「ああ・・大丈夫っす」
実際、痛みはあるが、熱があるわけじゃないので頭は働く。オープン・カフェだが、今日は幸い洗い場で客席に出る事も少ない。
十三時を過ぎた頃、店は急に忙しくなってきた。
サンドやバーガー等、軽いランチメニューを手ごろな価格で用意しているこの店は、OLやリーマンに結構な人気を誇っている。
当然、洗い物も多くなるわけだが、クソ忙しいこの時間帯に倒れるわけにはいかない。
痛みで朦朧とする意識を何とか保たせ、ランチを乗り切った。ランチの洗い物が片付き始めた頃、ドリンカーの人から水をもらい、一息ついた。
「ねえ、聞いてくれる? こないだ話した智成くんと昨日飲みに行ったんだ」
「へぇ。合コンの後結局連絡来たんだ。よかったですね」
「うん」
「最近バイト内も不仲だからなぁ。久しぶりに潤った会話ができそうだ」
痛みで苦笑いにも似た笑いになったんだろう。理恵さんは「どおゆう意味よ!」と軽く怒った風に笑った。
「でさ、その時まずい事に塁が同じお店にいたのよ」
塁は最近まで理恵さんと付き合っていた。塁は俺と同中で、理恵さんと別れてから二週間ほどでここを辞めてしまった。
理恵さんは三つ上で、お姉系のすらっとした美人タイプの人だ。気さくで結構な男食い。理恵さんに言わせると俺らの歳は”おいしい”らしい。気をつけねば。
一方塁は女みたいな名前をしているが、情に厚くまじめなタイプ。哲学者の様に人間関係を日々模索している。付き合い始めは理恵さんもそんな塁に感化されてか、「人間って自分に無いものを持ってる人に惹かれるのよ。自分に無いものを持ってる人と付き合って、学んでいくの」なんて、哲学者ぶっていた。結局理恵さんは、その考えを(悪い意味で)実行した。やはり今までに無いモノを持ってる人に惹かれるタイプなのだそうだ。
塁の方も塁で、そんな理恵さんを知りつつ、「理恵を解ってやれるのは俺しかいないんだ」なんて意気込んで感情を押さえつけていた。確かに、世の中の人は大抵結婚という終着点に着く。その終着点に着ける人がいるならば、それは自分だと思いたいのは当然だ。だが、”付き合う”事と”結婚”なんてのはまた別次元の話。塁はそこの所がよく分かっていない。いや、分かってはいるが、自分の信じた恋がそんなに儚いものと思いたくないのだろう。
塁がそうまでして付き合うことを決意させたのは、理恵さんが浮気を告白した時”泣いていた”からだそうだ。冷静な判断のできる第三者から見れば、塁の判断は美しくも愚かな行為に見えるだろう。
それからしばらくして、二人は別れた。一晩中言い合い、物に当たる塁を見て、理恵さんから切り出したそうだ。
「塁すごく睨んでた」
まあまだ未練があるのに同じ店で楽しそうに他の男と飲んでいたら、そりゃあ落ち込むか怒るかはするだろう。
「だから私も睨み返したの」
「何でそうなるんですか・・・」
そんなことしたらどうなるか解ってるはずなのに。
「その後はもう、気まずくて店でて・・・」
「ふーん。・・・その人何歳でしたっけ?」
「22・・・って! ち、違うよ」
目をくりくりさせて――何で私がそんな事言われるの?見当もつかない!――みたいな顔をした。
「はいはい。で?」
「何か話す事無くてそのまま帰っちゃった」
「うーん。・・・もしかして聞いてもらいたかっただけすか?」
「そうだよ」
・・・。
カチャカチャと洗い物に戻る。
「あースッキリした。ありがと」
「はい」
話をしないで洗い物をしていたら、例の痛みがぶり返してきた。
(これどうなるんだろうなぁ。まあ、大丈夫かな)
なんて考えたが、どうにも景気のよい方向にはいってくれそうに無い。痛みを抑えるためシンクの縁に腰を押し付け、目を瞑った。
「咲矢ぁ大丈夫か?」
先輩のその声でふと我に返った。
気がつくと二時四十五分を回っていて、洗い物は溜まり放題だった。
「あ・・・すみません」
ガシャガシャと全速力で洗い始める。洗い物のスピードには自身がある。
溜まっていた洗い物も、十五分ほどで全て片付いた。
十五時を回り、休憩の時間になった。倒れこむように休憩室のソファに座り、そのまま目を閉じる。
「咲矢君大丈夫?」
同じ時間に休憩だったホールの皐さんが背中をさすりながら聞いてきた。
「うん・・・」
「無理しないほうがいいよ。店長に言って今日はもう帰りなよ」
「後で聞いてみるよ」
背中をさすってもらった事で、嘔吐感が収まり、急に眠くなってきた。
そして・・・
起きると、真っ白な天井が俺を見下ろしていた。
To be continued