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私を男と呼んでくれ(仮題)

第十話『日没の星』


その連絡が来たのは、病院にいる時だった。
 いつもより数段強い痛みに耐え切れず、担当医の斉藤の下へ走ったのだ。俺の希望は急所を蹴られても痛くないほどの強い麻酔。しかし、麻酔は元々人体にとって毒である為、処方にはそれなりの手続きが必要であり、今回の場合は処方できないと言う。結局、いつものより少し効き目の早い薬と、いつもの薬と併用する事になった。
「え? 何ですか?」
 第一外科の様にガヤガヤとはしていないため、フロアに俺の声が響いてしまった。KONISHIKIをふたまわりぐらい小さくした年配の看護婦がこちらを睨みつけている。俺は慌てて声を小さくしながらベランダに出た。
「だから、ジャスミンがいなくなっちゃったのよ!」
 ジャスミンは皐さんの仕事仲間の女の子だ。イギリス人と日本人のハイブリット。一種族じゃとても創りえない整った顔立ち、スタイルをしている。本名は他にあるらしいが、お店でも使っているため、皐さんもこの名前で普段は呼んでいる。
「一緒に出たんじゃないんですか?」
 痛みに耐え切れずに家を出たのは昼過ぎだった。元カノの着信を無視し、温のメールも返してない。家を出る時、二人はまだ俺の家にいた。夕方には二人で夜のお勤めに行くと言っていたので、とりあえず合鍵を渡し、痛みに耐えながら原チャを飛ばしたのだ。
「ううん。昼過ぎにコンビニに行くとか言って出てったきり戻らないのよ」
「う〜ん。すいません。俺もうちょっとかかりますけど、帰り際少し近所探してみますよ」
「うん。よろしく。今日は夜があるから」
 皐さん達の仕事の場合、同伴とか色々事情もあるのだろう。ましてや昨日会ったばかりの俺には、近所をちょっと探すぐらいが精一杯だ。皐さんの焦った声に大した危機感も覚えず、 俺は諸手続きを済まし、病院を出た。
 原チャを飛ばして約二十分。見慣れた通りに出ると、俺は北口の前に原チャを停めた。商店街をぷらぷらと歩いていると、何となく気になる路地を見つけた。昔から探し物は”何となく”で探して当てるのが得意だった。昔誰かが言っていた「探し物は見つけようとした時には見つからない事が多い」と言う言葉に感化されたせいなのかも知れない。
 百円ショップの脇の道を入り、材木屋の角を右に曲がると、突き当たりに古ぼけて角が錆びているポストが目に入った。忘れ去られたように寂しく立っているポスト。そこに隣接するフェンスを越えて、俺は空き地に降り立った。四方がビルに囲まれており、まるで東京の狭い空の代表の様だった。どこから持ってきたのか解らない古ぼけた土管やソファ、雨で濡れてグシャグシャになった雑誌などが捨ててある。水に濡れたヤニの匂いが、風が舞う度に鼻を掠める。土管の脇に腐ったゴムが捨ててある。最近またここいらで事件が多発しているらしいが、ここもそのポイントなのだろうか。わざわざフェンスまで登ってレイプされに行く女。一体どんなヤツなんだろう。メンバーの中には、まだ中坊もいるらしい。これは高円寺の事情に強い円さんの情報。円さんは南口の一角にある小さなカフェのマスターだ。小さな店だが、その代わり店の隅々まで円さんの息が届いている。机や椅子の一つ一つにまでこだわりが見えるその店内は、サイフォン式で丁寧に淹れたコーヒーを更に雰囲気よく飲ませてくれる。俺が高円寺に住みだして初めて行ったその日、偶然その店を見つけたのだが、心地よい豆の香りと店内の雰囲気にあっという間に魅せられてしまった。その事を言うと、円さんはふんと鼻を鳴らすだけだった。あの時は素っ気無い態度に首を傾げたものだが、通い詰めて解ったことがある。円さんは大の人嫌いなのだ。人々の安らぎの場であるカフェの経営者としては、この上なく向いていない。あの時の反応は円さんにとって意識しないでできる精一杯の表現だったようだ。今の店も元々は夫と二人で経営していたもので、ある事件に巻き込まれてからこちら、円さん一人で経営する事になったそうだ。
 今は股の感覚はほとんどと言っていいほど無い。1.5倍以上に膨らんだ睾丸のせいで、最近は太めのパンツしかはいていない。何となくカッときて、横にあったソファを蹴り飛ばすと、ソファはスプリングの肋骨とスポンジの腸をぶちまけながら倒れた。とりあえず、ここはシロ。さっき思い出した”レイプ”と言う言葉に嫌な想像をして、俺はまたフェンスを登った。
 次はジャスミンが行ったというコンビニに向かった。女の子なら日中買い物やら行くだろう。新宿なんかに行ったほうがよっぽどの暇つぶしになる。しかし、皐さんに連絡が無いというのは気になる。世話好きのあの人のことだから、見当がつく所は手を回したのだろう。最近表向きにも危ないと感じるのが"Sunset Stars"通称サンスターと”ソリア”の抗争。これまた解り易く南と北に別れたチームで、最近この二チームの衝突が激化している。南と北では起こる事件の種類も数も違う。南は比較的事件も少なく、北は過激的な事件が多い。家からコンビニまでは約五分。その間に何かが起こったとしたら・・・地元の地理を頭の中に蘇らせる。先ず北口はシロ。となると・・・。
 その時、 尻ポケットに挟んだケータイが楽しげな音楽を奏でた。着信は『SAINT-PIERRE-ET-MIQUELON』。円さんだ。
「はい。めずらしいですね。どうしたんですか?」
 通い詰めたのが功を奏したのか、円さんは気になる事があると時々こうやって電話をくれる。
『倉式君、また厄介ごとに巻き込まれてるんでしょう?』
「はい・・・って、ほんとよく知ってますね」
 家に盗聴器でも仕掛けてあるんだろうか。はぁとため息が漏れる。
『そんな趣味は無いんだけど』
 慌てて口を押さえた。
『皐ちゃんから聞いたのよ。それより、あのジャスミンとか言うハーフ、サンスターに捕まったらしいわよ』
「えっ?」
『さっさと行った方がいいわ。今日は何か大きなイベントがあるって話だから』
「行くってどこ――」
『もう見当はついてるんでしょう? それとも、まだついていないの?』
「はぁ・・・ついてますよ。行ってきます」
 再びため息が漏れる。どうやら盗聴器が仕掛けられているのは家ではなく、俺の頭の中のようだ。
『殺されないように。チーム名聞かれたら”非番だ”って答えるの忘れちゃ駄目よ』
「はい」
『あと――警察に気をつけなさい』
「はぁ・・・」
 恐怖は・・・恐怖はあまり感じない。歩きながらふとそんなことで頭がいっぱいになった。生殖能力の無い者は、後世に伝えるべきモノが無い。今までもそうだったが、自分の中で割り切ってはいけないモノも割り切ってしまう傾向が日に日に強くなっている。・・・それは命。夢を持っている時は、いつか来る死なんかより、もがけば手が届く距離に吊るされた夢ばかりを見ていた。当たり前のことだ。けれど、今はその夢にも靄(もや)がかかってしまっている。この落ち着き払った態度は薬のせいなのか、無意識のうちに何かを悟ってしまったのか。夢も死も・・・いや、五感さえ皆曇りガラス越しに感じる。なんと空ろで陰気な世界だろう。色彩を帯びたモノも、この世界では輪郭がぼやけ、滲んでしまう。
 狂いかけた頭を電信柱へ押し付け、何とか押さえた。目指すはサンスターの溜まり場であるクラブハウス・イヴ。一度家へ帰り、それなりの服装に着替えた。フツーの格好じゃあ、入る前に睨みを効かされてポイだ。家で一番太いパンツに、ユニオンのTシャツ&esのシューズ。決め手は皐さんがくれたゴツイ金のネックレス。我ながらおかしい格好だ。いつもより多めに薬を飲んで、俺は出かけた。街行く人は皆チラチラと見ては目を背ける。南口のロータリーを抜け、氷川神社の裏に入る。一見住宅街のこの奥に、サンスターの溜まり場『イヴ』はある。安っぽいホテルに挟まれていて、知らなければ通り過ぎてしまうだろう。尤も、通り過ぎるのが一番安全なのだが。
 地下への入り口の前に大型冷蔵庫みたいな黒人が立っている。イヴ営業中の合図だ。軽く頷いてみせ、中へ入る。地下へと続く階段には無数にバンドのシールが貼られ、下地が見えない。安っぽい洋服屋を曲がると、分厚い防音扉が待っていた。ノブを回して開けると、既にスタートしているようで、防音扉一枚隔てた先から安っぽいDJの声とつなぎの甘いHIP&HOPが聞こえてきた。
「一枚」
「ドリンク込みで二千円」
 ぶっきらぼうに金を受け取り、ドリンクチケットにバンドのチラシを数枚よこした。重い扉を開け、中に入る。イヴは高円寺じゃちょっと有名なクラブハウスだ。それもある意味。最近サンスターの溜まり場になっているのが原因だ。オーナーも参っているという話だが、手は出せまい。奥のVIPルームにはデカデカとマジックミラーが貼られている。一夜を過ごすのにこれ以上とない部屋だ。これもある意味。
 胸や帽子に"Sunset Stars"のマークの入ったピンバッヂを付けているのがサンスターのクルーだ。バッヂは地位によって色が別れているらしく、白やら黒は街でも比較的よく見られる。階級差を明確にする事により、上へ上がりたい奴は頑張る。それにより比較的楽に統制が執れる。東京というジャングルに生まれた集団でも、頭のキレる奴がいるとこうなるわけだ。チームのバッッヂ。まずはアレを何とかしないと・・・。とりあえずジーマを頼んだ。医者からきつく止められているが、最後の晩餐だ。それを飲みながら作戦を練った。と言っても、最後はやられる事に代わりは無いのだが。
 上手くは言えないが、何となくジャスミンが気になる。二度も夢に出てきたからか。または、無意識下の意識なのか。いずれにせよ知らない部分の多い彼女に惹かれているのは確かだ。
 円さんも楽観視している所から見て、上手くいけばボコられるぐらいで済むだろう。中肉中背だが、体だけは丈夫だ。
 鈍そうなのを見つけ、傍へ行ってすれ違い様にピンバッチをスリ取った。それを付け、俺はVIPルームのノブに手をかけた。扉が少し開かれたが、不思議なことに中には誰もいなかった。
「おい。おめぇ何してんだ」
 後ろからブルドーザーの駆動音みたいな声が聞こえ、ノブに手をかけたまま振り向いた。ちっとも似合わないキャップにサンスターのピンバッチが光っている。
「何か用か?」
 俺が入るのはさも当然だろうと言った雰囲気で答える。
「今日はソリアの奴らが入ってる。無駄な騒ぎを起こすなって言われてるだろ」
 そいつが着けているのは俺と同じ赤のバッヂ。
「ソリア?・・・解ったよ」
「お前どこのチームだ?」
 円さんの言った通りだ。素っ気無く「今日は非番だ」と答えた。
「そうか。とりあえず大人しくしてろ。今日は大事な日なんだ」
 そう言ってブルドーザーは去って行った。
「どうゆうこと」
 ジーマに口をつけながら考え込む。最近の抗争―空の部屋―警察に気をつけろ―パズルのピースが足りないのか、考えても何も浮かんではこない。
「なあ」
 横にいるサンスターのバッヂを着けた女を捕まえた。
「何?」
 ナンパだと思ったのか、女はウザったそうにこちらを見た。が、バッヂを見るとケロリと態度を変えた。いいバッヂが欲しくなるのも頷ける。
 先ず、今日はサンスターとソリアの停戦調停がここイヴで行われるらしい。ここ数ヶ月の抗争で二チームともかなりのダメージを負った。ただでさえ膠着状態なのに、警察が出てきたとなればバランスは崩れ、それ相応の被害が出る。それを避けるための一時停戦だそうだ。ドンドンと鳴り響く重低音に内臓のいたる所が圧力を受ける。南のサンスター、北のソリア。駅の南北を境に、抗争は日に日に激しさを増しているのは事実だ。高円寺のチンピラについての歴史本があるとすれば、突然起こったこの抗争に関して何かの添え書きがあるはずだ。一つ目のバンドが終わる頃、入り口の方が妙に騒がしくなった。見ると、サンスターのボス―本田一輝―が入ってきていた。プロレスラーみたいな奴が二人、油断無く周りを見渡している。その後ろに――ジャスミンがいた。高い背と、人並み外れた美貌が暗闇の中でも目立つ。つまらなそうな顔で、ディスクを変えるDJを眺めている。
「あの女は?」
 取り巻きの一人を捕まえて聞いてみる。
「ここだけの話、あいつソリアへの土産らしいですよ。テルさんにとっては正直不本意な条件らしいけど・・・ソリアのヘッドは変態らしいんで、いいタマ見つけるのに苦労したらしいっす」
 得意げにペラペラと喋るクルー。この様子を見ると、サンスターの中ではあまり高い地位にいない様だ。腰巾着で満足している、哀れなクルー。
 一行が動き出し、ジャスミンの腕に光るものが見えた。――手錠だ。
 そのままジャスミンは例のVIPルームへと入って行く。
「ジャスミン!」
 俺の声に気づき、ジャスミンが顔を上げる。手錠から逃れようとカチャカチャと音を響かせ、もがいたが、取り巻きの一人に強く押さえられ抵抗を諦めた。
「誰だお前。コイツの知り合いか?」
 ビリビリとよく切れるナイフの様な危なっかしい殺気が突きつけられた。一瞬で”別モノ”と認識されたようだ。実際、本田一輝はハンパなかった。すらりと伸びた手足には、神秘的な力さえ感じる。冴えた頭を表現するように整えられた顔。キラリと輝く一閃のナイフのような目。本田一輝の殺気は正に殺意を帯びたものだったが、俺の自己犠牲的な精神構造はそれを柔らかく吸収してくれた。
「ジャスミンは仕事があるんだ」
 ヒューと軽々しい口笛が鳴る。後ろには数人の気配。――と思った瞬間、後頭部に鈍痛を感じた。意識が飛びそうなのを堪え、立ち上がる。後頭部に生温い感触。
「もっぺん言ってみろ!」
 周りから様々な野次が飛ぶ。依然本田一輝は雲の上から見下ろすように俺を見ている。始まる前から対等と見られていない視線。まるでアメリカと日本の外交だ。
「知り合いが心配してるんだ」
 ぽたぽたと背中に血が伝うのも構わず、俺は口を開いた。囲まれ、頭を殴られても動じないこの態度に、本田一輝はようやく同じ高さまで降りてきた。何だかんだ言って俺の足はちゃっかり震えているが。
「こいつは有名だからさ」
 くいと引っ張り、ジャスミンが前に出る。
「いずれ解る」
 そう言って犬でも引っ張るようにジャスミンを引っ込めた。と同時に、本田一輝は俺の股間を蹴り上げた。ぐしゃりと鈍い音がし、痛みではない別の感覚で膝をついた。――体が発する、根本的な危険回避行動――気絶だ。朦朧とする意識の中、二重三重に重なり合って笑い声が響いた。蹲(うずくま)る俺に手を出す者は無く、皆見世物でも見るように笑い転げている。
「う・・」
 嘔吐感を堪え、俺は芋虫のように本田一輝を追った。その時、頭の中にふいに言葉が蘇った。
 最近の抗争―空の部屋―警察に気をつけろ―・・・停戦調停!
 そしてある結論に行き着いた―――ソリアの罠。
「おい、がんばれ! がんばれ!」
 嘲け笑う声に混じって、ジャスミンの叫び声が聞こえる。曇りガラスの世界は更に曇ったガラスで覆われ、そこに暗いカーテンが下ろされる。
 最後に本田一輝の足を掴み、俺は「逃げろ」と一言言い、意識を失った。

「あれ・・・どこだここ」
 確か俺はイヴに行って本田一輝にタマ蹴られて・・・。
 その後が思い出せない。左手は点滴に繋がれている。ぽたりぽたりと一粒ずつ落ちる雫を眺めていると、カーテンが耳障りな音を立てて開いた。
「サクヤ!」
 ジャスミンだった。長い髪を俺の顔いっぱいに垂らし、胸の上で泣いている。
「ここは――」
 どこ?と言い切る前にジャスミンは「ここは病院よ」と言った。
 ジャスミンの後ろには斎藤医師が立っている。それで理解した。
「無断でだが・・・緊急に手術を行わせてもらったよ」
「はい」
 まあ、骨の一本や二本は覚悟していたんだ。する予定の手術が早まっただけで済んだのはこの上ないラッキーだ。 後頭部の怪我はお釣りだと思おう。
「明日に控えておいて欲しかったのに・・・酒まで飲むとは」
「すみません」
 時計を見ると、もう夜の十一時だった。
「サクヤ、大丈夫?」
「ああ。大丈夫。・・・たぶんね」
 下半身は未だに痺れている。この感覚が正常に戻ったとき、果たして正気を保っていられるのだろうか。
「今夜はゆっくり休むんだ。明日、大事な話をするから」
 面会時間はとうに過ぎているはずなのに、ジャスミンを置いて斎藤医師はゆっくりとドアを閉めた。
「ジャスミン」
 俺には高級すぎる一人部屋の中に、月明かりに照らされた二人の影が短く落ちている。
「何で俺たちここにいるんだ」
「何でって・・・救急車で運ばれて」
「違う。あのまま行けば俺は私刑でジャスミンは連れ去られるはず・・・」
 手に軽くキスをしながら、ジャスミンは黙った。
「・・・あの男がね。恩に着るって」
 ああ、やっぱり。
 どうやら本田一輝は俺の最後の言葉を理解したらしい。停戦調停は、双方の戦力が無い、または同等の下行われるのが定石だ。イヴにはソリア側のクルーはいなかったし、いるはずのソリアのヘッドが消えていた。なんらかのタレこみ情報でもあれば、警察は喜々として介入してくる。エス等を吸っている奴もいただろう。正に袋のねずみ。間違いなく罠だ。事件のウラにはまだ何かありそうだが、これでますます南北の抗争は激しくなった事は間違いない。俺たちがここにこうしていられるという事は、結果的に本田一輝に助けられたという事だ。ジャスミンを連れ去った理由はその容姿では無い様だが、今はもう考えるのもだるい。それは明日考えようと思った。なにより、胸の上で呼吸するジャスミンの髪を梳くのに忙しい。人騒がせな謎の少女を胸に抱き、俺は海に沈む様にゆっくりと眠りに落ちた。

To be continued

 

bacck